「あの事件は俺がやった」自称犯人まで現れた「3億円事件」の闇…伝説の刑事が“サンケイ新聞の購読者”を当たった理由
謎めいた自殺
この事件で「犯人ではないか」と指摘されるのが、現職警察官の息子で当時19歳のS。地元を根城にしていた不良グループのメンバーで、有力な容疑者として浮かんだが、事件5日後の昭和43年12月15日に青酸カリで自殺した。
「被害額の大きさから、とにかく注目を浴びる事件となりましたが、犯行に使われたバイクや車はいずれも盗難品。しかも、バイクを白バイに改造するためのトランジスタメガホン(トラメガ)も盗難品でした。大事件ではありますが、捜査の肝は、車やバイクを中心とした常習の窃盗犯の洗い出しを最優先にすべきでした。しかし、開設当初の捜査本部はてんやわんやの大騒ぎで……。捜査第1課が主管する強盗なのか、捜査第3課が見る窃盗なのかで意見が分かれ、最終的に強盗事件となり、府中署に捜査本部が設置されたのは午後4時すぎでした」
発生当初に捜査本部に詰めていた警視庁OBの述懐である。もちろん、窃盗前科者の捜査は行われており、その過程でSをはじめとして何人かの容疑者が浮かび上がる。だが、常習者だけに、警視庁だけでなく近隣県警でも手配を受けている可能性もあり、最優先で身柄をとるためには情報を共有する必要があったが、それができなかった。
かねてから捜査中であった、窃盗容疑での逮捕状を持った立川警察署の4人の刑事がSの自宅に向かったのは、12月15日だった。その日の深夜、彼は青酸カリを飲んで自殺する。「3億円事件の被疑者である可能性が高いので、Sについて直接の接触は当面、控えるように」――こうした命令や指示は出ていなかったという。
また、事件のあった昭和43年は大学紛争が吹き荒れた年でもあった。東大、日大など全国で100を超す大学で紛争が起き、中でも東大は翌44年1月、警視庁機動隊と過激派学生が安田講堂で2日間にわたり攻防戦を繰り広げ、入試が中止になった。3億円事件の現場周辺には国立大学や私立大学がいくつかあり、平日の昼間の犯行であることから、「過激派学生や支持者が資金集めに?」という見方も挙がった。
「捜査対象者の中にも活動家歴のある人や、警察内部でいうところの“興味ある素行の持ち主”が何名かいました。しかし、当時の大学では、刑事が身分を秘匿して学内に入って聞き込みをしても、協力が得られないばかりか、身分がばれたらリンチを受けるような時代です。過激派による資金集めではないか――という見立ては、時効当時にも指摘されましたが、満足な捜査ができたわけではありません」(警察庁関係者)
では、捜査で最も犯人に近づいた瞬間はなかったのだろうか――。
3億円事件と同じ昭和43年6月に起こった「横須賀線事件」がある。横須賀線に仕掛けられた時限式爆弾が爆発し、死傷者を出した事件だ。神奈川県警察の捜査員たちは、現場で木っ端みじんに飛び散った遺留品をくまなく調べ、爆発物を包んでいた新聞紙の社名と印刷機、そして配達地域を特定、犯人逮捕にこぎつけた(本連載の第4回で詳述)。3億円事件でもそれに近い展開があったのである。
犯行に使用された偽白バイに取り付けられていたトラメガは、盗品であることが捜査で判明していた。販売ルートなど、所要の捜査を展開したが、犯人にたどりつくことはない。事件から2年後の昭和45年になって、特捜本部に詰めていた捜査第1課の平塚八兵衛刑事があることに気づいた。押収したトラメガは、白バイ偽装用に白ペンキが塗られていた。この塗装をはがせば、何か出てくるのでないか……。
〈それで、上司に白い塗装をはがしてくれって、頼んだんだ。証拠品だから、ダメだって、断られてしまった。しかし、どうしても、あきらめ切れなくてね、塗料を剥離する途中を、いちいち写真にとれば、証拠としてもいいだろうと思って、塗料をとってもらうことにした。こりぁ、上司の承諾なしだ〉(佐々木嘉信著 産経新聞社編『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』新潮文庫)
すると、トラメガのマウス(しゃべるところ)に新聞の地紋(記事や印刷物に使われる模様)が張り付いているのが分かった。
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