“4523人分の冬のボーナス”が一瞬で奪われた「3億円事件」捜査の裏側…「ジェラルミンケースに万札が並んでいた」ワケではなかった!
事件が未解決になった場合、それまで得られた膨大な捜査資料はどうなるのか……。ある警視庁OBによると、重要未解決事件に関しては必要な資料や記録を保管しているという。昭和55年6月に竣工した警視庁本部庁舎(霞が関)は地上18階、地下4階の威容を誇るが、そのどこかに、管内で起きた重要未解決事件の資料が保管されている。時効が成立しても、犯人を名乗るもの、犯人と思われるものが浮上した際、容疑者なのか否かを確認するためだという。昭和43年12月10日に発生し、同50年に刑事上の、そして同63年には民事上の時効も成立した「3億円事件」もその一つである。あまりにも有名な戦後未解決事件の舞台裏を探ってみたい。(全2回の第1回)
【写真で見る】3億円事件を追い続けた「昭和の名刑事」の在りし日の姿と、三億円事件の現場や遺留品など
3億円の衝撃
本シリーズでよく引用する警察庁の教養資料には、昭和から平成にかけて全国で起きた主要刑事事件の概要と、捜査の概況、反省・教訓などが記されている。これから刑事警察の捜査現場で指揮官(幹部)になる警察官たちの教科書でもあり、当然のことながら、解決した事件に関しては捜査経過やその後の処置などが詳細につづられているが、未解決に終わったものは短い記述にとどまる。3億円事件も同様だ。まずは、事案の概要から。
〈昭和43年12月10日午前9時20分ごろ、東京都府中市にある東芝府中工場の従業員のボーナスである現金2億9430万余円を積んだ日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車が、府中刑務所にさしかかったとき、後方からきた白バイ警官に扮した犯人が、「この車には爆弾が仕掛けられている」と申し向けながら乗務員4人を避難させ、その隙に現金輸送車を奪って逃走したもの。その後犯人は、国分寺跡で車を乗り換え、小金井本町地内の団地でジュラルミンのトランク3個から現金を抜き取り、いずれかに逃走した〉
約3億円の現金を白バイ警官になりすまし、わずか数分で奪い去る――事件の与えた衝撃は相当なものだった。この事件より前(戦前も含めて)、被害額が最高だった現金強奪事件は、昭和40年9月に青森県の青森銀行弘前支店前で起きたひったくり事件で、被害額は3100万円。犯人は2か月後に逮捕されている。
後に捜査第一課長として、府中署に設置された特捜本部の指揮を執った武藤三男氏は、事件発生時、機動捜査隊長だった。階級は警視、管理職である。
〈当時の武藤の月給が五、六万円。「仮に毎月十万円をもらうとしても年百二十万円、十年で一千二百万円、百年でやっと一億二千万円。ふとそんな計算もしてみた」〉(産経新聞「戦後史開封取材班」編『戦後史開封 昭和40年代編』扶桑社文庫)
ちなみに、当時のサラリーマンの平均年収は70万6300円だった。
奪われた現金は、東芝府中工場の従業員4523人に配られる賞与だった。一般に現金強奪事件のイメージは、ジェラルミンケースを開けると万札(当時は聖徳太子)がびっしりと並んでいるイメージがあるが、この事件はすべて賞与袋に小分けされていた。つまり、犯人は犯行後、4523人分の賞与袋を開けて現金を奪い、明細書や封筒を処分したことになる。
現金輸送車には4人の行員が乗っていた。後ろから走ってきたニセ白バイは右側から輸送車を追い越し、前方に回って右手を上げて「止まれ」の合図を送った。
「これは日本信託の車ですね。巣鴨署からの連絡で支店長の自宅が爆破されました。車にダイナマイトが仕掛けてあるので、シートの下を見せてください」
「昨日は車のカギをちゃんとかけてあるので、そんなものがあるはずはない」
答えたのは運転手。ここまでは“冷静”だった。
「じゃあ、車の下かもしれない」
ニセ警官のこの言葉に導かれるように4人は車を降り、後部に回った。
「あったぞ、ダイナマイトだ。爆発するぞ」
と、車の下から白い煙が噴き出し、赤い炎が上がる(実際は発煙筒)。4人は一斉に逃げ出し、ニセ警官は輸送車に乗り、最初はゆっくり、そして猛スピードで走り去った。
「現在は各メーカーがありますが、当時の白バイはほとんどがホンダ。しかし、犯行車両はヤマハ製でした。また、白バイが車両停止を求める際は、急停車は危険なため、サイレンを吹鳴し、車載マイクか警笛を鳴らして合図するのがルールです。しかも、ヘルメットに記章はなく、よく見ればバイクも灰色がかっていた(注・犯人が白に塗装した)。後になればわかることですが、こうした違和感に気づくことはなかったのです」(警視庁OB)
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