「ユン」「チェン」「キンポー」にピンときたら一見の価値アリ ヒットメーカー「古沢良太」手がけるフジ新ドラマ「ラムネモンキー」と香港3大スター

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香港3大スターの軌跡

 ハリウッド進出を果たし、世界的スターとなったジャッキーは、キンポーもユンも通った「中国戯劇学院」で7歳から10年にわたりアクションの基礎を学び、学院の閉鎖後、映画のエキストラやスタントマンを務め、62年公開の「大小黄天覇」で映画デビューを果たす。無名時代は当時大スターだったブルース・リーの「ドラゴン怒りの鉄拳」(72年)、「燃えよドラゴン」(73年)などに、役名もない役で出演。なかなかなか芽が出ず、俳優業から離れた時期もあったが、76年にジャッキー・チェンに改名し、再デビューを果たした。

 3人の中で最年長のキンポーは、同学院に入学直後の10歳からスタントや子役として映画に出演。8年にわたり同学院で学んだ後は、スタントマンに興味を持って映画界で仕事をするようになる。70年に設立され、香港映画ブームを作り上げた映画会社「ゴールデン・ハーベスト(以下GH社)」とは武術指導師としての契約を結んだ。その後、尊敬するリーに声をかけられ「燃えよドラゴン」で共演を果たす。

 そして、3人の中で最年少のユンは、同学院で10年間学び、14歳からエキストラやスタントマンで映画の仕事をするように。リーの映画では「ドラゴン怒りの鉄拳」、「ドラゴンへの道」(72年)、「燃えよドラゴン」に出演している。リーが撮影期間中に急逝し、未完となっていた「死亡遊戯」(78年)では監督を引き継いだキンポーに起用され、リーの足技や、体格が似ていたため、リーのバイクアクションのスタントをつとめた。

「3人が売れる前の香港映画界は、リーが1人でけん引していました。そのため、3人ともリーの作品に関わったのですが、ジャッキーが出遅れることに。ところが、リーの死去により、GH社は新たなスターを探す必要に迫られ、司会者としても人気だったマイケル・ホイ(83)を主演に据えた『Mr.Boo!』シリーズが大当たりするのです」(同前)

 そのころ、再デビューしていたジャッキーは、当初こそ主演映画が不発だったものの、それまでのカンフー映画とは一線を画したコメディー要素を取り入れた「スネーキーモンキー 蛇拳」(78年)、「クレージーモンキー 笑拳」(79年)などが相次いでヒットを記録、当時の所属映画会社からGH社に移籍後、自ら監督・主演を務めた「ヤングマスター 師弟出馬」(80年)もヒットした。

「ジャッキー、ホイという2人のスターをそろえたGH社は、ここから快進撃を果たします。それに伴い、キンポーとユンもスターに成長したのです」(同前)

 GH社は81年に米の俳優、バート・レイノルズを主演に据えたカーアクション映画「キャノンボール」でハリウッド進出。ジャッキーとホイは、北アメリカ大陸を市販車でどれだけ速く横断できるかを競う非公認レースに参加する日本人レーサー役を演じた。

「当時、1ドルのレートは220円でしたが、全米では7200万ドル(約158.4億円)の興行収入を記録。日本での配給収入(=興行収入から映画館興行側の取り分を差し引いた数字)は21億円を記録。81年の日本国内のトップは2本立て公開の『セーラー服と機関銃/燃える勇者』の23億円だったので、かなりのヒット作となりました」(同前)

 キンポーはリー、ジャッキー、ユンらと違い、愛嬌のあるポッチャリ体形だったもののアクションはキレキレ。リーへのオマージュで「燃えよデブゴン」(香港は78年、日本は81年公開)で監督主演を務めたが、ヒットはしなかった。

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