幼女わいせつの余罪多数 部屋には大量のビデオと雑誌が…「奈良小1女児殺害犯」の歪んだ半生 死刑判決にガッツポーズ しかしその後は「再審請求」を重ね
小4で母親が死去
父親は、プロパンガスの販売業を営んでいた。主に住吉大社で営業するテキ屋を相手にした商売だったが、経済的に豊かな家庭ではなかった。小林は3人兄弟の長男で、祖母が一緒に住んでいた。母親は、小林が小学4年の頃に亡くなっている。別の住人によれば、
「それからやったわ、薫君がおかしゅうなったのは。父親は気の短い人で、酒が入るとすぐキレることがありました。けど、母親が健在の頃は、母親が宥めたりして父親の暴走を止めることができた。ところが、三男を産む時に難産で、母親が亡くなってしまった。三男も脳性マヒで重い障害が残ってな。家族にとってはえらいショックやったと思います。特に父親が荒れてしまって、その矛先が薫君に向かったんやと思う。酒が入ると薫君をよく殴ってました。生活は荒んでましたよ。父親は満足に子供達に食事も作ってなかったと思う。若い頃の薫君はガリガリに痩せてましたから」
小林は、地元の公立小、中学校を経て、豊中市にある私立高校に進学した。同級生はこう振り返る。
「小学校の頃から、小林は上の者や同級生の前では大人しくしとるんですが、年下にはすぐ暴力をふるったり、イジメたりするタイプでした。低学年の頃ですが、自分の弟が可愛がっていたウサギを、近所の人が見ている前で、高い塀の上から叩き落として殺したことがあった。弟は泣きじゃくってましたが、悪びれた様子もなく、ニタニタとした表情が忘れられません」
別の同級生も言う。
「中学時代には、早くも性的な雑誌を買い込んでは見せびらかしたりしていた。スカートめくりをしたり、万引きもやっていた。陸上部に入ってはいましたが、熱心ではなく、成績もクラスでビリの方。やはり友達がいなくて、すぐ家に帰っては近所の年下の子供にちょっかいを出していた」
部屋からはビデオが
高校卒業後、昭和62年に小林は大阪市内の居酒屋チェーン店に就職するが、長続きはしなかった。
「仕事は皿洗いやテーブルの後片付け、オーダーを取ったり、厨房で大根を摺ったりなど。新米のまま辞めたかな。神経質そうなタイプだったし、無口だったことぐらいしか記憶に残っていない」(従業員)
半年で退社した後、次に読売新聞の販売店に就職するが、この頃に最初の事件を起こしている。平成元年6月、20歳になった小林は、友人のキャッシュカードを盗み、20万円を引き出した窃盗容疑で箕面署に逮捕された。だが、この逮捕をきっかけに余罪がゴロゴロと出た。箕面市では、その年の春から幼女を対象にした強制わいせつ事件が多発していたが、その犯人と小林の人相が酷似しており、同署が追及した結果、小林は犯行を次々と自供したのである。被害者は、5歳の幼稚園児ら幼女8人に及んだ。
当時、事件を取材した地元記者はこう話す。
「小林宅からは、少女嗜好のビデオと雑誌30~40冊が見つかった。本人の供述によれば、高校2年の時に後輩の家でアニメの少女嗜好ビデオを見てからとりこになったという。ガールフレンドが欲しくて、スナックなどで大人の女性に声をかけたが相手にされなかった。幼女ならイタズラしても親や警察に言わないだろうと思ってやったとも供述しています」
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