エレキに魅せられた少年が「INORAN」になるまで――LUNA SEAからソロへ続く軌跡を語る

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 バンド「LUNA SEA」のギタリストとしてデビューし、1997年からはソロ活動も行うINORANが9月24日にアルバム「ニライカナイ-Rerecorded-」をリリースした。2007年にソロアルバムの4作目として発売された「ニライカナイ」を、なぜいま、再レコーディングしたのか。自身の音楽的な来歴を振り返りながら語ってくれた。

(全2回の第1回)

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中学入学後、さまざまな洋楽の刺激を受ける

 地元は神奈川県秦野市。中学進学のタイミングで、二つの小学校の生徒が一校に集まることになり、新たな友達が増えた。彼らから音楽的な刺激を受けたという。

「小学校の頃は野球に夢中で、音楽は聴いていなかったんです。それが中学に入ると音楽好きなやつがいて。自分も成長期の過程にあって刺激が欲しかったんでしょうね。洋楽などを聴くようになっていったんです」

 英ロックバンドの「デュラン・デュラン」などのレコードを借り、やがて自分でも買うようになった。中学入学の年の10月から、地元のテレビ神奈川(tvk)で「全米TOP40 」(billboard TOP40)の放送が始まった。様々な洋楽が耳に入る環境にもなり、ますますのめり込んでいった。

「貸し借りするレコードをコンポで聴いているうちに、自分でもやりたくなったんでしょうね。今思えば、聴くのはギターの目立つハードロックが多かったと思います」

 自宅には、父が大学時代に嗜んでいたクラシックギターがあった。しばらくこのクラシックギターを弾き、のちにエレキギターを買う際には、父に半分、費用を出してもらった。

「昔は父に一度も怒られたことはないんですが、すごく怖かったんですよね。息子が音楽をやっているのはもちろん知っていたけど、『もっと他にやることがあるだろう』という無言の圧がありました。ただ父も止められなかったんでしょうね。バンドをやって髪を伸ばしたりしていたけれど、息子の生き生きとした横顔を見てくれていたんだと今は思います」

中3から自主興行で演奏 大学進学せず、父と最初で最後の喧嘩

 中学3年でバンドを組み、会館を借りて“自主興行”めいたものも始めた。その頃から東京・渋谷に通い、道玄坂の「La. mama」などのライブハウスにも出入りしていた。すでに音楽が情熱を傾けられるものになっていた。

「見る見るうちに成績は下がっていきましたけどね(苦笑)。高校を卒業する頃には結果を見せたいし、見せつけたい気持ちもあった。当時、すでに(後のLUNA SEAの)メンバーにも会っていましたしね。やっぱりみんな飛び抜けていましたよ」

 J(ベース)は同じ中学の同級生で、SUGIZO(ギター、バイオリン)は1つ上の先輩。INORANとJは同じ高校に進学し、SUGIZOが進学した高校には真矢(ドラムス)がいた。第2次ベビーブーマー世代だったとはいえ、これだけの才能が近くにいたことに驚かされる。

「中学ぐらいだと普段の“生息範囲”って狭いでしょ? でもそれを少し広げると、こんないかつい奴がいるんだって思いました。ジェラシーを感じるぐらいのものを持っているんだって。それがSUGIZOであったり真ちゃんだったりね。その時は違うバンドでやってたけど、すげぇなって」

 才能が才能を呼び「お前と俺が一緒にやったらすごくないか?」との思いが一致。共に演奏するようになるのも自然の流れだった。となれば、プロへ行くには逃げ道を断って突き進むしかなかった。

「この道しかないと自分に暗示をかけるぐらいの気持ちでしたね。当時はバンドブームでしたし、その中で突き抜けていくには相当な覚悟が必要で。とはいえ全てがうまくいくわけでもない。でもそれに負けないもの……情熱だったのか悔しさだったのか、今となっては分からないですけど、そういうものが必要でした」

 プロの道に進むにあたり、怖かった父には「大学に行け」と言われたが、反発し、最初で最後の喧嘩をしたという。

「大学は自由な時間も多いでしょうし、一生の友達もできると父は考えていたんでしょう。音楽に出会わなければその道もあったかもしれませんが、もう出会ってしまったからね」

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