視聴率好調「ばけばけ」、滅多に他人のドラマを誉めない「テレビマン」の間でも評判が高い理由
膨大な文通
1889(明22)年、ビスランドはニューヨークで注目の人となった。ジュール・ヴェルヌの大ベストセラー小説『八十日間世界一周』(1873年)にならい、世界1周タイムトライアルに挑戦したからだ。汽船の旅である。
新聞「ニューヨーク・ワールド」の女性敏腕記者だったネリー・ブライが東回り(大西洋)経路で世界1周に挑むことになったため、対抗意識を燃やした『コスモポリタン』が急きょビスランドに世界1周を命じた。こちらは西回り(太平洋横断)経路だった。
勝者はブライ。72日でゴールした。ビスランドが帰ってきたのはその4日後。それでもニューヨーク市民から拍手を浴びた。過酷な船旅だったことに変わりはないからだ。
ビスランドの船旅は八雲のその後の人生に影響を与える。彼女の最初の寄港先は日本の横浜。僅か24時間の滞在だったが、日本の雰囲気をいたく気に入る。八雲にも日本行きを勧めた。
八雲とビスランドの手紙は膨大な量になった。ビスランドの手紙の1通には「あなたの本は私にとって喜び」と記されている。八雲が病気の際には「そばで癒やしてあげたい」などと書いている。一方、八雲のほうは「心配事を話す相手がいなかったら、私はどうなっていただろう」と感謝している。(同・2019年8月19日付、読売新聞大阪朝刊)
相思相愛のようだが、そうとも言い切れない。なにしろ八雲は1891(明24)年、トキのモデルであるセツと事実婚の関係になった。ビスランドも同じ年、弁護士のチャールズ・ウェットモアと結婚した。さすがに手紙のやり取りも途絶えた。
手紙が復活したのは約10年後。古き良き日本を愛した八雲が、工業化、軍国主義化に閉口していたころである。1903(明36)年には大学側で金額を決めておきながら、「給与が高い」として東京帝国大学の講師職を一方的に解雇された。八雲の苛立ちはピークに達する。ビスランドに米国で教壇に立てる大学を探してほしいと頼む。もっとも、すぐに早稲田大学から招聘されたこともあり、米国行きの話はなくなった。
1904(明37)年、もともと心臓の弱かった八雲は心臓麻痺で急死する。54歳だった。残った謎はビスランドとの関係。八雲が恋心めいた思いを伝えたことがあるという説も存在する。しかし真実は2人にしか分からない。
ビスランドは八雲の死から2年が過ぎた1906(明39)年、八雲の才能をより知ってもらうために『ラフカディオ・ハーン その生涯と書簡』を出版した。自分に届いた手紙も載せたが、八雲のプライバシーに触れる手紙は一切省いた(同・工藤美代子著、『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』、毎日文庫)。
八雲の長男・小泉一雄さんは1950年の著書『父小泉八雲』(小山書店)に2人の関係をこう書いた。これが真実に最も近いのではないか。一雄さんは八雲の死後、ビスランドとも会っている。
「エリザベス・ビスランド女史との親交は、あるいは一種の恋愛ともいえるかもしれぬ。しかし、それは白熱の恋ではない。沢辺の蛍のごとき清冽な恋である」
なにしろ八雲が来日してから2人は一度も会っていないのだ。高い知性や旺盛な好奇心など共通点が多かった2人が、愛に近い友情で結ばれていたのだろう。
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