NHK朝ドラのモデル秘話! アンパンマン生みの親夫妻の“本当の出会い”とは?

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 人気アニメ「アンパンマン」の生みの親・やなせたかし夫妻をモデルにしたNHKの朝ドラ「あんぱん」が始まった。主役の今田美桜や北村匠海をはじめ豪華キャストが注目を集め、視聴率もまずまずの出足だという。

 ドラマの中で、主人公の二人は幼なじみという設定だ。その方が生い立ちを描きやすいからだろうが、実際の二人の出会いはそれとは違う。創刊間もない小さな月刊誌で、編集から広告取りまで何でもこなす若きやなせの目をくぎ付けにしたエネルギッシュで小柄な女性、それが「イダテンおのぶ」こと小松暢(のぶ)だった。当時の仕事ぶりと運命の出会いを、東京科学大学の柳瀬博一教授(メディア論)の『アンパンマンと日本人』から抜粋して紹介しよう。

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全てをこなした「月刊高知」時代

 入社後、すぐに高知新聞社は雑誌を創刊することになり、やなせたかしは雑誌編集部に配属されました。「月刊高知」。スタッフは編集長を含めてたった4人です。「月刊高知」への配属は、やなせたかしのその後の運命を二つの意味で決定づけました。「編集」のプロになる大きなきっかけとなったこと。そしてもう一つは生涯の伴侶、小松暢と出会ったことです。

「月刊高知」の仕事を通じて、やなせたかしは、「デザイン」と共に後年の彼の仕事の方法論の軸の一つとなっている「編集」を学びました。

「新聞記者として入社したのに雑誌の編集をすることになったのです。表紙からカット、挿絵、取材、座談会の司会、すべてやりました」「広告取りから集金の雑務、原稿依頼もルポ記事も全部こなして勉強になりました」(『人生なんて夢だけど』フレーベル館 2005)

「スタッフは編集長以下4人だけ。絵は描けるわ、文章も書けるわ、で僕に向いていましたね。付録のすごろくまで作った。編集も組み版から何から全部やるので覚えてしまいました」(『やなせたかし メルヘンの魔術師 90年の軌跡』中村圭子編 河出書房新社 2009)

 やなせたかしが「月刊高知」に在籍したのは1年ほどですが、ここで彼はアンパンマンに至るまでの仕事の型を獲得します。それは、「編集者」である自分が、「漫画家」「執筆者」 「イラストレーター」 「デザイナー」である自分に仕事を発注する、「一人雑誌編集部」ともいうべきスタイルです。

「月刊高知」でやなせたかしはすでに紙メディアに求められる表現技法の大半を自分でこなしています。取材・執筆、イラスト、漫画、レイアウト、そして表紙絵も含めたカバーデザイン。さらに以上の仕事を発注する編集者でもありました。

「やさしいライオン」も「アンパンマン」も、ラジオから始まって、大人向けメルヘン、子供向け絵本、アニメーション、映画と、マルチメディアに作品世界が広がりましたが、やなせたかしは人任せにせず、自分自身でプロデュースしました。その根っこにあるのが、「月刊高知」で鍛えられた編集仕事だったことは間違いありません。

生涯の伴侶、小松暢との出会い

 やなせたかしのその後の運命を決定づけたもう一つは、「月刊高知」で、小松暢と出会ったことです。小柄でスラリとした美少女タイプでしたが、「イダテンおのぶ」の異名を持つ、俊足でバリバリ体育会系の短距離ランナー。なにより記者として不可欠な度胸たっぷりの女性でした。

「広告の集金に行き、相手が女の子だと思ってナメていると見るや、ハンドバッグを投げつけて、『きちんと払いなさいよ』と啖呵を切る」(『人生なんて夢だけど』)

 暢は編集長とやなせたかし含め男3人と一緒に東京までぎゅうぎゅう詰めの汽車に乗って取材に行き、闇市で買ったおでんを食べて暢以外の全員が下痢になったりしたこともありました。倒れたやなせたちの看病をする彼女に、やなせたかしはすっかり惚れてしまいます。その後、二人は付き合い始めますが、暢はいち早く高知新聞社を辞めて上京します。追いかけるように、やなせたかしも辞め、東京へ向かいました。

三越の包装紙と『まんが入門』

 上京したやなせたかしは、小松暢と同棲し、結婚しました。結婚式も披露宴もなし。やなせたかしは三越の宣伝部に職を得ることができました。三越時代の最大の仕事は、有名な「三越の包装紙」のアートディレクション。デザインを画家の猪熊弦一郎に頼み、やなせはロゴを描きました。

 一方で、自分より9歳若い小島功を中心に長新太らが集った若手漫画家たちのグループ「独立漫画派」に加わり、サラリーマン兼業漫画家としても活動していました。兼業とはいえ、ようやく漫画家としてのプロの舞台に立てたのです。

「三越の仕事が終わると、銀座にある独立漫画派の事務所に通う。さまざまな雑誌の編集部から、漫画ページに載せる漫画の注文が入っていて、それをみんなで分担してやり、原稿料を分けていました」(『人生の歩き方 やなせたかし』NHK出版 2008)

 戦後、次々と雑誌が生まれ、新聞は部数を増やし、漫画市場は拡大しました。あらゆる紙メディアが漫画を掲載したがっていました。三越入社5年目には、三越の給料よりも、漫画の収入の方が多くなりました。そして「原稿料が給料の3倍になった時に、三越を退社したんです」(『やなせ・たかしの世界』サンリオ 1996)

 1953年3月、やなせたかしはフリーに転じました。専業漫画家として生きよう、と決めたのです。妻の暢は背中を押してくれました。

「やめなさいよ、なんとかなるわ、収入がなければ私が働いて喰べさせてあげる」(『アンパンマンの遺書』岩波書店 1995)

 幸い、時代は、独立したばかりのやなせたかしにとって追い風でした。1950年代半ばから60年代にかけて、日本の漫画市場は質量ともに爆発的に発展していたからです。

 そんな時代の空気を象徴するような出来事がありました。独立したばかりのやなせたかしのところに、いきなり執筆のオファーがあったのです。

「やなせ先生、『まんが入門』の本を書いてください」

 華書房という名の出版社を立ち上げたばかりの女性がたずねてきました。

 すでにさまざまな雑誌で漫画を発表していましたが、代表作もないし、漫画家としての一般知名度もありませんでした。「むずかしいよ」と難色を示すやなせに対して、とにかく「書いてください」。

 女性編集者の勢いに押されて書いた『まんが入門』(華書房 1954)は、類書がなかったこともあり、売れました。後年、「やなせ先生、昔あの本で漫画の描き方、勉強したんですよ」とやなせに声をかけてくるプロの漫画家や著名人が何人もいました。その一人が、コピーライターで「ほぼ日」創業者である糸井重里氏です。

 2013年8月、糸井氏は、やなせたかしに「ほぼ日刊イトイ新聞」でロングインタビューを行っています。話題になったのが『まんが入門』でした。中学生時代、糸井氏は漫画家になろうと思っていました。そのとき手に取って購入したのがこの本だったのです。

「あの本を読んで、定規だとかケント紙だとか買いました。そういうきっかけがあって、漫画家になろうと思ったんです。結局、ならなかったんですけどね」

※本記事は、柳瀬博一『アンパンマンと日本人』を一部抜粋したものです。

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