「主題歌はまず大物ミュージシャンありき」という朝ドラの“常識”は見直してもいいのではないか
転居続きの表れ
歌詞に2度登場するフレーズがある。「何があるのか どこへ行くのか 分からぬままに家を出て」。これはセツの率直な思いを反映したものに違いない。小泉夫婦は転居を繰り返した。
セツは23歳だった1891(明治24)年、八雲と一緒に熊本に来た。しかし約3年後の1894(明治27)年、兵庫県神戸市に移る。八雲が五高を辞めてしまい、神戸の英字新聞「神戸クロニクル」の記者になったからである。
八雲の五高赴任時の校長は嘉納治五郎。「柔道の父」として名高い人物だ。東大卒の大変なインテリでもあった。そのうえ人格者だったことから、八雲はたちまち心酔する。
それでも辞めたのは日本の欧米化を望む同僚教師たちとソリが合わなかったから。また熊本には旧日本軍の第6師団があった。1894年に日清戦争が始まったため、至るところで兵士が目につくようになった。古き良き日本を愛する八雲は耐えられなかった。
八雲は神戸クロニクルも4か月で辞めてしまう。目を痛めたためだった。日々の仕事を終えた後、日本をテーマにした代表作『知られぬ日本の面影』(第一書房、1894年)を書いたため、目を酷使し過ぎた。
しばらくフリーの身で作家業をしたのち、1896(明治29)年には東京帝国大学の講師として招かれ、上京する。もっとも、東大側が決めた金額なのに「給料が高い」と一方的に言われ、1903(明治36)年に解雇される。文部省(現文科省)の方針が変わったためだった。
翌1904(明治37)年に早稲田大に招聘された。八雲に付き添って松江を出たセツは「何があるのか どこへ行くのか」という心境だっただろう。歌詞では「帰る場所など とうに忘れた」というフレーズも2度登場する。ここにも転居を重ねてセツの思いが表れている。
歌詞の「日に日に世界が悪くなる」は八雲の胸中だろう。日本の資本主義化を嘆いていた。八雲は1894年、五高の全生徒の前で「極東の将来」と題した講演を行っている。日清戦争開戦の直前だ。八雲はこう説いた。
「いずれ経済の戦争の時代がきて、そのときは日本と中国がライバルになっている」(小泉凡著『セツと八雲』朝日新書)。八雲は100年以上先の日本を見通していた。
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