ボウリング界のスター「西城正明」 売れない歌手からプロボウラーになった男の現在 本人が明かす(小林信也)

  • ブックマーク

 ボウリングが一世を風靡した1970年代、男子プロボウリング界をけん引したスターの一人が西城正明だ。

 70年、プロ8期生の西城は、1期生の王者・矢島純一を脅かすライバルとして登場、テレビ中継の主役となった。それはボウリング場が「雨後のたけのこのように」急増した時期と重なる。全国で69年に970軒だったボウリング場が、70年1381、71年2226、72年には3679軒になった(日本ボウリング場協会調べ)。

 西城は72年1月に9ゲームシリーズのハイスコア2433ピン、平均260ピンの最高記録をマークした。

 彼の人気の要因はその実力、美しいフォーム、甘いマスクに加えて、「五月みどりの実弟」で「元歌手」という背景にもあった。

 西城が振り返る。

「私が城西高校の1年生の時、姉が『おひまなら来てね』のヒットで有名になった。私は野球部で上下関係も厳しかったけど、『大野、姉ちゃんのサイン、もらってくれるか』と先輩に言われ、ハイと答えるとやさしくしてくれました(笑)」

 大野は五月と西城の本名だ。法政大に進み、プロ野球選手を目指そうと思ったが、身長164センチの西城は気後れし、入部をためらった。

「翌年に山本浩二、田淵幸一らが入部。とてもレギュラーになるのは無理でした」

 在学中に姉を頼り、芸能界を志した。飛ぶ鳥を落とす勢いの五月の口添えで同じクラウンレコードに所属。デビューもした。

「芸名は、出身校の城西を逆さにしたんです(笑)。有線放送を回るなど、かなり頑張りましたが、全然売れませんでした。当時はGSブームで、タイガース、ジャガーズが人気だった」

大橋巨泉と対戦

 その頃、はやり始めたボウリングに出会った。

「夢中になりました。体が小さくても関係ない。マイボールを作ったらどんどんスコアも上がりました。元々運動神経は抜群で、人の動きをまねするのが得意だった。王、長嶋、秋山登とか野球選手はよくやっていた。似顔絵も写真みたいに描ける。それがボウリングにすごく役立った」

 動きの特徴を捉え、再現する能力の高かった西城は、プロボウラーたちのフォームを自分のモノにした。数カ月で200を超えるスコアが出せるようになった。

「ある日、〈週刊明星オールスターボウリング大会〉の告知を見つけた。出たい!と思ったけど売れてない私には案内が届きません。姉に頼んで出場できるようになりました」

 会場は東京タワーボウリングセンター。予選3ゲームの上位5人がテレビ中継のある決勝に進出できる。

 西城はなんと、3ゲーム計621ピン、アベレージ207で1位通過を果たした。

「私のことは誰も知らない。西城って誰? 五月さんの弟らしいよって騒がれた」

 優勝決定戦は他の3人を破って勝ち上がった大橋巨泉との対戦となった。

「巨泉さんは粗削りだけど、勢いがある。結局同スコアで2フレームのプレーオフになった。私は最終フレームでダブルを取ったけど、先にダブルを記録した巨泉さんに2ピン差で負けた。でも解説席から、『西城さんうまいね。練習すればプロになれるよ』という声が聞こえてその気になりました」

 売れない歌手からプロボウラーへ。練習を重ね、2年後にプロテストに一発合格。晴れてプロになった。

次ページ:通算獲得賞金2位

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。