“せんみつ”との名コンビで笑いを届けつつ、心は音楽に… 湯原昌幸「ゴールまで歌い続けたい」

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

第1回【“B面発”から120万枚のヒットへ 湯原昌幸が語る「雨のバラード」誕生までの歩み】のつづき

 湯原昌幸(78)がボーカルを務めたグループサウンズ(GS)のバンド「スウィング・ウエスト」の名曲「雨のバラード」。1968年にシングルのB面曲として世に出たが、人気に火が付くまで時間は掛からなかった。その後、ソロでも大ヒット。湯原はバラエティ番組にも進出するようになり、今なおオシドリ夫婦として知られる荒木由美子(65)と結ばれるきっかけにもなった。だが「本道は音楽」との思いはずっと変わっていない。

(全2回の第2回)

 ***

月に100万以上稼ぎ、実家を援助 ソロデビューの夢をつなぐ

「イントロがチェンバロで、ちょっとクラシカルな匂いのするメロディーラインとアレンジだったでしょ? 銀座ACB(アシベ)のお客さんからのリクエストでも、『雨のバラード』が俄然多くなってきたので、両A面になった。だから“雨バラ”のレコードジャケットは2種あるんだよね。やっと“雨バラ”が日の目を見たという思いだった」

 1970年にスウィング・ウエストが解散すると、一人っ子の湯原は父から「家業を継げ」と迫られた。だが昭和中盤の当時に月に100万円以上を稼ぎ、実家にも援助していたことを盾に「ソロデビューの夢をかなえたい」とこれを突っぱね、銀座や六本木のジャズ喫茶で弾き語りをはじめた。六本木の絨毯バーでは尾崎紀世彦の後任として出演し、1970年4月に「見知らぬ世界」でソロデビューを果たした。だが、思うようには売れなかった。1971年に2枚目のシングルを出すにあたり、絨毯バーでの尾崎の相方が歌っていた曲が候補にあがった。「今にわかるわ」という曲だ。

「調べたら、『ヒデとロザンナ』になる前の『ユキとヒデ』時代のヒデ(出門英)とユキ(佐藤由紀)が作った曲で。これがなかなかいい曲で『シングルにしよう』と考えたんです。B面曲をどうするかという段で『雨のバラード』にするか、となって。だからこの時も“雨バラ”はB面の予定だったんです」

 だが曲を完成させると、「やっぱり“雨バラ”がいいんじゃない?」という声が大きくなった。名曲は1度ならず2度までも、その力でA面にのし上がってきたのだ。

「絨毯バーで、バーニングの周防(郁雄)さんが、ビクターのディレクターを連れてきたときに、“雨バラ”と『今にわかるわ』を歌ったの。周防さんは“雨バラ”を絶賛したけど、ディレクターは『ダメダメ、こんなの売れないよ』って。『じゃあ賭けるか?』なんて話をしてたけど、後に、周防さんに『御馳走するから』って呼ばれたよ(笑)」

 ソロ版の「雨のバラード」は、時間を置いて名古屋から火が付いた。リクエストが多かった東海ラジオのサテライトに訪れた際は、土砂降りの雨だったという。

「雨の曲なんで、梅雨どきに向かって4月にリリースしたけど、夏が過ぎても秋が過ぎても売れない。デビュー曲と同じくまたダメか、なら、また弾き語りでもして仕事がなくなったら実家継げばいいか、なんて思ってた(笑)。それがあれよあれよという間に売れ出してね」

 累計120万枚を超える大ヒットとなった。

バラエティにも進出 ロケで訪れた長崎県諫早市で「3年待ってるから帰ってこい」

 テレビの時代にあって、当時の歌手はコント番組でコメディを演じることも多かった。

「僕も自分の歌も歌わせてもらえるから『シャボン玉ホリデー』なんかに出て。プロデューサーやディレクターが『面白いね』って言うの。そうした人たちが金曜の夜に『大人のバラエティ番組を作ろう』と言って始まったのが『金曜10時!うわさのチャンネル』(日本テレビ系、1973年10月放送開始)だったんだ」

 この番組に出ていたせんだみつおとは、同時期に放送されたTBS系の「せんみつ・湯原ドット30」でも共演。フジテレビ系の人気トーク番組「スター千一夜」にも揃って登場するなど、軽妙なやり取りはテレビ史にも残るコンビネーションだった。

 愛妻・荒木由美子との出会いも、せんだと一緒の現場だった。

「期末の特番で、長崎県諫早市で撮影をしていた小柳ルミ子主演のドラマ『春まっしぐら!』(TBS系、1981年)のリポートにせんだと行ったときのこと。僕らのロケは早々に終わって、旅館の部屋で飲んでいたら、『お疲れ様です』と由美子が前を通ったわけ。以前から面識はあったから呼びとめたのがきっかけですね(笑)」

 「私、飲めないから」と笑う荒木を「いいから来い」と呼び、楽しく飲んで数時間。酔いもすっかり回ってから、湯原が“プロポーズ”したというから驚く。

「自分でも何言ってるか分からないうちに、『由美子、俺3年待ってるから俺のところへ帰ってこい』って言ったんですよ。酔ってたけど言ったことは覚えてるんだな、これが。でも帰ってこいの意味も分からないし、3年という期間の意味も分からない(苦笑)。由美子は『やだぁ湯原さん』なんて笑ってたけど、マネージャーは由美子をさらに売り出そうとしてた時期で『変なこと言わないでください』なんて怒ってた。でも3年後に本当に結婚したんですよ(笑)」

 まさに神が言わせたような“プロポーズ”だったのだ。

次ページ:自ら芸能誌を買って売り込み 今も続く「冬桜」との縁

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。