“B面発”から120万枚のヒットへ 湯原昌幸が語る「雨のバラード」誕生までの歩み
(全2回の第1回)
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1971年に発売され、トータル120万枚を売り上げた湯原昌幸(78)の名曲「雨のバラード」。所属していたバンド「スウィング・ウエスト」でもシングルに収録され、後にソロとなった湯原が再び歌った曲だが、いずれも当初はB面曲、あるいはB面候補だった。だが曲の持つ力で、バンドでもソロでもA面曲に変わった経緯がある。湯原は今年、徳間ジャパンコミュニケーションズに移籍。その第1弾として、シングル「どうかしてるね」を11月5日にリリースしたが、その収録曲にも、再び原曲に忠実なアレンジで新録音した「雨のバラード」を選んでいる。
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「赤面症」だった少年時代
茨城県牛久市出身。近所の公園に見に行った講談が、芸事に接した初めの頃の記憶だという。
「父や母は浪曲や民謡が好きでね。ラジオから流れてくる浪曲や民謡、それに軍歌なんかを子どもの頃からよく聴いてましたね。そのうち、村田英雄、三波春夫、春日八郎らの曲が流れてくるようになって。さらに時が進むと舟木一夫、西郷輝彦、橋幸夫の『御三家』の曲もね」
のちの活躍を見れば、幼少時から人前でいろんなことができたのだろうと想像するが、本人はきっぱり否定する。
「いわゆる赤面症でね。当時はバスで団体旅行なんかに行くと、マイクが回ってきてアカペラで歌わされるなんて普通のこと。それがイヤで椅子の下に隠れたりしていたぐらいだから。それでも歌をはじめ、芸事は好きだったんだよね」
東京へ引っ越し、中学に入ると、同級生の「サイトウ」くんが文化祭でギターを弾くのを見た。
「それがカッコよくてね。しかも僕が好きだった女の子が、サイトウのことを好きだったんだよ。悔しくてね(笑)」
高校時代になると、そんな思いが音楽に向かって一気に結実する。
「新宿ACB(アシベ)で月1回、新人コンテストをやっているって話を同級生に聞いて、誘われてね。僕も抵抗なく行ったってことは、その頃には音楽への血が騒いでたんだろうなあ。ハワイアンやロカビリーが流行っている時代だったんで、ウクレレを買って友達と3人でバンドを組んで、文化祭で初めてステージに立った。ところが文化祭のメインゲストだった(ギタリストの)アントニオ古賀さんを見て、カッコよくて。『やっぱりきょう日、ギターだよな』と思って、当時、新聞に載っていた『物々交換コーナー』で、うちの使い古しのラジオとギターを交換したんだよ。今思えば安物のギターだったけどね(苦笑)」
高校在学時にテレビ出演、バンド「スウィング・ウエスト」に加入
コンテストに通ううち、洋楽にも興味を覚え、音楽の幅も広がった。コンテストのバックバンドは、まだメジャーになる前の「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」だったという。
「まだ三原綱木が入る前だったかな。井上(忠夫、のちの大輔)さんがサックス吹いて、ジャッキーさんがドラムを叩いて。彼らをバックバンドにしてコンテストでは歌っていたんだけど、それが高じて今度は日本テレビ系の『味の素ホイホイ・ミュージック・スクール』に応募したんだ」
後の「スター誕生!」の原型となった番組である。鈴木やすし、木の実ナナが司会を務め、番組のバックバンドはザ・ドリフターズが務めていた。
「この頃の僕はもう狂ったように歌うようになっていた(笑)。もともと一人っ子で友達付き合いが得意じゃなかったのに、仲間のおかげで音楽好きの血が噴き出しちゃったんだろうね。予選会は何度か落っこちたけど、やっと受かって本番で歌えた。当時のドリフターズは、まだ長さん(いかりや長介)がリーダーになる前の『桜井輝夫とドリフターズ』の時代だったね」
視聴者によるハガキのリクエストが多いと「今月のスター」になれた。番組からは布施明、三田明、東山明美らが輩出。湯原も番組出演がきっかけで渡辺プロダクションから声がかかり、スクールメイツの一員として活躍し、日本劇場にも立つようになった。ところが……。
「なぜか、東洋企画に行くことになったんだよね。(同じ番組出身の)三田明が所属していたんで、その関係で引っ張られたのかな。東洋企画のオーナーは、ジャズ喫茶から始まった銀座ACB(アシベ)も持っていたんだけど、そこでは、ホリプロ創業者の堀威夫さんが作ったバンド『スウィング・ウエスト』が演奏していた。東洋企画の創設にも堀さんは関わっている。僕はレコードデビューがうまくいかず、スウィング・ウエストのバンドボーイ兼前歌として勉強してこいって言われたんだ。当時のスウィング・ウエストは平尾昌晃やミッキー・カーチスといった人たちのバックバンドをやっていたんだよね」
まだ17歳だった湯原はソロデビューを夢見ながら、Tシャツ姿で楽器を運び、靴磨きをし、ロカビリー歌手として人気を誇っていたささきいさおに好物のクリームソーダを運ぶような毎日を過ごしていた。いわゆる“坊や”だったが、それも勉強だと思って懸命に取り組んだ。そこに急遽舞い込んだのが、スウィング・ウエストへのメンバー入りだった。
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