“B面発”から120万枚のヒットへ 湯原昌幸が語る「雨のバラード」誕生までの歩み

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「お前らもGSになれ」とは言われたが……

 1966年7月にスウィング・ウエストのボーカルとなり、シングル「流れ者のギター」を発売。1967年にはバンドはグループサウンズ(GS)化された。

「あの頃、ザ・スパイダースが売れ始めて、銀座ACBでキャーキャー言われ始めた。それからGSブームになったこともあって、『お前らもGSになれ』と会社から言われたんだよね。でもGSとなって最初の曲『恋のジザベル』はブラスセクションも多用されていて、なんだかマリアッチ風の曲。美川鯛二としてロカビリーをやっていて、すでに作曲家に転身していた中村泰士さんの作詞・作曲なんだけどね」

 当時はウッドベースの植田嘉靖がバンドリーダーを務めていた。神田共立講堂でのリサイタルを行うにあたり、作曲家の鈴木邦彦に曲を依頼したが、上がってきたのは1曲だけ。曲数を補うために採用されたのが、植田が作詞作曲していた曲。それが「雨のバラード」だった。

「レコードのB面用として作られていた曲だったんです。ギターの梁瀬トオルがもともとロカビリー歌手に憧れていて、高音で伸びのある声がきれいに出せるので、彼とのツインボーカルだったんです。しかも僕はハモる側。最初は予定通り、B面の曲として発売されたんだよ」

 1968年5月10日、シングル「幻の乙女」のB面曲として、「雨のバラード」はリリースされた。

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 ついに名曲が世に出た。第2回【“せんみつ”との名コンビで笑いを届けつつ、心は音楽に… 湯原昌幸「ゴールまで歌い続けたい」】では、その後の「雨のバラード」や、妻・荒木由美子との出会い、なお続く歌への愛を語っている。

デイリー新潮編集部

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