「偽物の薬」で病気が治り、「国家のため」に命を犠牲に… 人間はつくづく思い込みの激しい生き物だ(古市憲寿)
プラシーボ(プラセボ)という言葉がある。日本語では偽薬。薬のように見えるが、薬としての成分を含まないもので、「砂糖で作った錠剤」や「食塩水の注射」などが使われる。数々の実験で、意外とプラシーボの効果は馬鹿にならないことが分かっている。さまざまな病気でプラシーボ効果の検証がなされていて、中には高価だと教えられた偽薬ほど効くという研究もある。
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ここまでは常識の範囲だと思う。経験則で人々は「病は気から」ということを知っていた。だがオープンラベル・プラシーボといって、「これは偽物の薬です」と被験者に伝えても、きちんと効果が出る場合があるという。特に腰痛や偏頭痛など慢性的な痛み、過敏性腸症候群、さらにはうつ病などで症状を改善する効果が、臨床研究によって確認されている。
なぜ偽薬だと分かっているのに効果があるのか。いくつか仮説が提唱されている。例えば「儀式が大事」説。医療行為を受けているという安心感が患者を治癒に向かわせるのではないかという。他には「パブロフの犬」説もある。人は薬を飲んで病気が治った経験を繰り返しているので、偽薬だと分かっていても反射的に効いた気がしてしまう。
被験者に対しては「プラシーボでも改善が報告されています」と説明すると、さらに効果が増す。病気そのものを治すというよりも、主観的な症状には効果的ということなのだろう。
人間というのは、つくづく思い込みと物語の生き物なのだと思う。レストランもそうだ。グルメや食通と呼ばれる人でも、本当に味覚が確かな人は一部(人間観察による独断と偏見です。でも当たっていると思う)。ほとんどの人はランキングや評判を頼りに物語と情報を消費しているに過ぎない。
アートも同じだ。特に印象派以降のアート史の実験は、その物語を理解しないと評価が難しい。贋作かどうかで作品の価値ががらっと変わるということは、アート市場が信仰の共同体であることの証左だ。本当にその絵自体が素晴らしいなら作者が誰かは問われなくてもいいはずである。
プラシーボ効果の最たるものがナショナリズムだろう。ナショナリズムとは、自分が属する共同体の物語を信じること。「日本人ファースト」を叫ぶ政党があるが、一体「日本人」とは何か。同じ「日本人」というだけで、なぜ出会ったこともない人を同胞と思うことができるのか。これは自分たちが共通の歴史と文化を持つ運命共同体の一員だという物語を信じているからだ。さらに戦争において国民は、自分のためではなく、国家や家族、大義のために、敵国の人々を殺害し、そして自分の命までを犠牲にすることができる。「国家のため」というプラシーボが、死の恐怖を和らげる鎮静剤になるのだろう。
そう考えると、プラシーボで痛みが緩和されるのくらい当然な気がしてくる。今ちょうどチョコの食べ過ぎで胸焼けがしているのだが、これくらいプラシーボで治せそうである。



