「高市首相モノマネ」で炎上したキンタロー。と称賛された清水ミチコ 二人の“決定的な違い”とは
SNS時代の「笑いの型」と炎上のしやすさ 清水さんとは対照的なキンタロー。さんのモノマネ芸
笑いの主戦場であったテレビが弱体化したといわれるSNS時代、芸人に求められるのは「数秒で笑わせる力」である。しかし、笑いの「文節」が短くなればなるほど「誤解されるリスク」は増す。特に政治家や社会的立場のある人物をネタにする場合、切り取りによる拡散によって「どんな意図でやったのか」が伝わらないまま炎上することも珍しくない。清水さんが批判されず、キンタロー。さんが炎上したのは、まさにこの「文脈の欠如」にあったともいえる。清水さんは舞台や動画という長い尺の中で観客に「芸の呼吸」を伝えられるが、写真一枚の顔芸では、「何を伝えたいのか」が誤読されやすい。
ただし、これをもってキンタロー。さんを責めるのは酷だろう。SNSで注目を浴びることが芸人の生命線となった今、彼女が挑戦したのは自然な流れだし、「高市首相」という新しい題材に踏み込む勇気もあった。これまでもオノ・ヨーコさんや北大路欣也さんなどの大御所をレパートリーに組み込んできたし、浅田真央さんや長谷川京子さんなどの顔芸は、「似てる気もするけどなんかバカにしてないか」という議論を巻き起こしてきた。今回は「世間になじんでいない対象」を選んでしまったタイミングの問題というのが一番大きいのだろう。
それでも、キンタロー。さんの芸が持つ「人間くささ」は、彼女の何よりの武器だ。前田敦子さんのモノマネでブレイクしたときも、完璧に似ていなくても「情熱」と「努力」で笑いを取った。誰よりも汗をかいて踊り、大げさに顔をゆがめ、全力で「似せよう」とするその姿こそキンタロー。さんの魅力なのは確かである。
清水さんが「緻密な観察の笑い」だとすれば、キンタロー。さんは「体当たりの愛嬌の笑い」。どちらも日本のモノマネ文化の両輪であり、どちらが欠けてもこのジャンルは面白くならない。今回の炎上は、キンタロー。さんにとって「次のステージへの洗礼」だったのかもしれない。
「私の顔芸は嫌いでも、キンタロー。は嫌いにならないでください!」——あの名ゼリフを借りるなら、彼女の「顔芸魂」がこれで折れることなく、次にどんな愛のある誇張を見せてくれるのか。芸人キンタロー。さんの観察眼の進化に、これからも期待したい。





