深刻な首都圏のホール不足の背景にある「文化行政」の救いようのない低レベル
文化を育てるということ
筆者は学生時代、小林秀雄の『私の人生観』を読み、日本人の文化に対する底の浅い姿勢の本質を鋭く指摘していると得心した経験がある。このホール問題を考えるにあたって、黄ばんだ角川文庫を引き出して久しぶりに読み、ホール問題の本質をも表しているとあらためて思った。その箇所を少し引用したい。
「文化という言葉は、本来、民を教化するのに武力を用いないという意味の言葉なのだが、それをcultureの訳語に当てはめてしまったから、文化と言われても、私たちには何の語感もない。語感というもののない言葉が、でたらめに使われるのも無理はありませぬ。cultureという言葉は、ごく普通の意味で栽培するという言葉です。西洋人には、その語感は十分に感得されているはずですから、cultureの意味が、いろいろ多岐に分かれ、複雑になっても根本の意味合いはおそらく誤られてはおりますまい。果樹を栽培して、いい実を結ばせる。それがcultureだ、つまり果樹の素質など個性なりを育てて、これを発揮させることが、cultivateである。自然を材料とする個性を無視した加工はtechniqueであって、cultureではない」
「2016年問題」からなにも学ばず、文化の揺籃の地であり、文化を耕して育てる大事な場所であるホールを、文化の側の事情を一切考慮せずに閉めてしまう行政。公演を開催する側が、種を蒔き、水をやり、cultivateしながらていねいに育ててきた文化を、一方的に追い出してしまう。3年ものあいだ、水や肥料をやることもcultivateすることもできなければ、文化は危機的状況に陥る。ぜひ、もう一度考えてほしいが、cultureとtechniqueの区別がつかない文化行政には、なにをいっても届かないのだろうか。




