“熊殺し”の異名はあれど…伝説のプロレスラーですら熊とは「もう二度とやりたくない」 クマと人間の“異種格闘技戦”を振り返る
“熊害”が止まらない。10月28日には岩手県盛岡市の中心街にある岩手銀行本店の駐車場に現れ(後に捕獲)、秋田市の都市公園「千秋公園」近くにも出没。近隣の小学校が休校となった。東北地方だけでなく、京都の観光地・嵐山付近でも今年は何頭もの出没事例が報告されている。プロレス関連では、温泉旅館で働いていた元レフェリー、笹崎勝巳さんが10月16日、熊に襲われ命を落とすという悲劇があった。プロレス界においては、一種のギミックとして使われて来たこともある熊。だが、今一度、その真実を紐解き、あらためて警鐘を鳴らしたい。(文中敬称略)
【写真を見る】熊と闘ったレジェンドレスラーは、プロレス史に残る「巌流島の戦い」でも奮闘していた!!
「熊殺し」ウィリー・ウィリアムス
大のプロレス好きだった中島らもの小説『お父さんのバックドロップ』(集英社文庫)に、こんな異名の黒人空手家が出て来る。
〈“熊殺し”のカーマン〉
子どもに良いところを見せようと、父親であるプロレスラーがそのカーマンと戦うという筋立てだが、熊をも殺せるということが、その強さの表現となっている。そして、この空手家には、モデルがいる。往年の格闘技ファンならご存じだろう。まさしく同じ肩書きで呼ばれた“熊殺し”、ウィリー・ウィリアムスだ。
身長201cm、体重130kg(現役期)の体躯を誇る、アメリカ出身の黒人空手家で、極真空手に所属し、その世界大会で、何度も上位入賞を果たした。1980年にはアントニオ猪木と異種格闘技戦をおこない、延長戦の末、両者ドクターストップという余りにも凄絶な結末を残している。昭和の時代、猪木が国内で行われた異種格闘技戦で引き分けたのは、モハメッド・アリと、このウィリー・ウィリアムスだけだった(※他の国内異種格闘技戦には勝利)。
そのウィリーを、“熊殺し”として有名にしたのが、伝説の漫画家、梶原一騎の肝煎りによる1976年の映画「地上最強のカラテPART2」である。空手を題材にしたセミドキュメンタリーだが、この中でウィリーが、熊と戦うのである。同作ポスターなどのキービジュアルは、巨大な熊にウィリーが高角度の飛び蹴りを食らわせるシーンで、そこに以下の煽り文が被さっている。
〈死闘! 極真ケンカ空手か人喰い熊か!? 身長2メートル45、体重320キロの巨大熊とアメリカ・ペンシルバニア州で凄絶な闘い!〉
すなわち、ウィリーvs熊が、同映画の一番の売りだったわけだ。
とはいえ、今だから明かされている事実もある。こちらに登場した熊は、サーカス用で、人に慣らされた熊であった。よって、その牙も爪も、人為的に抜かれていた。ウィリーは普段はバスの運転手をして生計を立てており、その熊が用意されたペンシルバニア州の野原には、映画スタッフを乗せたバスを、自ら運転して辿りついたという。ギャラも、そのバスの運転代だけだった。つまり、誇大な広告はさておき、内実を知る映画製作サイドは、この一戦をあくまで軽めのアトラクションと捉えていた。
ところが、いざ、決戦の場に着き、サーカス関係者が用意した檻から熊を放つと、ウィリーはビックリ仰天。撮影する筈のスタッフが周りにいなかった。皆、立ち上がった熊の巨大さと威容に恐れをなして、一目散に逃げ出したのだ。当時を振り返った、貴重なインタビューがある。
〈スタッフは熊を見た途端、逃げ出してね。皆、恐がって狼狽えていた〉(「週刊新潮」2016年3月17日)
ウィリーと熊は戦ったが、同映画を見ると、熊はただ、じゃれているだけのように見えなくもない。もちろん殺す場面もなく、ポスターのように飛び蹴りが炸裂する瞬間など、望むべくもなかった。合成写真だったのだ。
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