“熊殺し”の異名はあれど…伝説のプロレスラーですら熊とは「もう二度とやりたくない」 クマと人間の“異種格闘技戦”を振り返る
熊と二度、対戦したプロレスラー
このようにサーカス用の熊は、ちょっとした技術を教えこまれ、“レスリング・ベア”としてデビューすることもあった。その熊と二度戦ったのが、マサ斎藤だ。1964年に開催された東京五輪のアマレス代表であり、アメリカで無実の罪で収監された際は、その刑務所のドンにおさまったという噂も囁かれる強者である。
試合がおこなわれたのは1970年代のフロリダ州で、熊を最初に観た時、斎藤は「なんだ、そんなに大きくないじゃないか」と思ったという。牙も爪も抜かれているが、さらに、噛めないように口にはマスクまでしてあった。だが、熊が立ち上がった瞬間、斎藤は死を覚悟した。
〈まるでゴジラだ。(中略)一度上から乗られたら、力と重さでこっちは動きが取れない〉(マサ斎藤著『プロレス「監獄固め」血風録』より)
身の危険を感じ、2、3分でフォール負けした。即座に調教師が熊の足を引っ張って熊を離れさせ、ことなきを得たが、プロモーターの熱望で二度目に違う熊と対戦をした際は、それが間に合わなかった。
すぐにフォール負けしたが、見ると、熊に装着してあったマスクが取れていた。(マズイ!)と思い斎藤は場外へ逃げ出そうとしたが、遅かった。熊の方が目にも止まらぬ速さで、斎藤の尻に噛みついていた。
〈骨のない場所で助かったが、もう二度とやりたくない〉(同書より)
1996年5月には、大日本プロレスが、このレスリング・ベアを招聘するという報道が流れた。テリブル・テッドという、こちらもサーカスを経験した熊だった。よって、牙も爪も抜いてある。体長223センチ、体重318キロで、推定年齢は10歳。人間に換算すると30歳程度という。当時、旗揚げ2年目だった同団体は数々の企画を模索しており、こちらもその一環であった。7月のシリーズよりの参戦が一旦は発表されたが、動物愛護団体の反対により、中止になったと当時はされていた。
だが、筆者が以前、大日本社長だったグレート小鹿に話を聞いたところ、真実は少し違っていた。日本動物愛護協会からは、挙行に際し同意は得ていたという。ところがいざ、このニュースが広まると、動物愛護を名乗る団体が、大日本プロレスが熊と回る会場に先んじて激しい抗議の電話やFAXを入れ、結果、使用を渋る体育館が続出。頓挫したのである。
「その団体を調べたら、住所は私書箱。電話やFAXは既に解約されてたよね」(小鹿)
ところで、この際、熊と一緒に来日が発表された人物がいた。リチャード・ウォーカーという人物で、知らぬ名だなと思ったが、レフェリーで、テリブル・テッドの試合を裁くという。なんのことはない。テッドの調教師であった。逆に言えばその熊の調教師が同じリングにいなければ、とても責任は持てないということでもあった。万一を考え、試合は金網マッチでおこなわれ、その金網に入れるまでは、檻に収監し、その檻をフォークリフトで運んで入場し、金網出入り口に横付けする算段だったという。
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