プロレスに“市民権”をもたらした元横綱「輪島」…「バカな俺を温かく迎えてくれた」リングに残した功績

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 初代タイガーマスクに代表される1980年代前半のプロレスブーム。テレビはもちろん専門紙・誌、夕刊紙が大いにその流れを盛り上げたが、朝刊スポーツ紙にプロレスは載っていなかった。

 その流れを変えたプロレスラーがいる。第54代横綱、輪島大士だ。

 1986年4月のプロレス入りに合わせ、朝刊スポーツ紙も一気にプロレス報道に参入する。元横綱という威光もあったが、現在も朝刊スポーツ紙でプロレス報道が掲載されているのは、極論すればこの輪島のおかげと言っていいかも知れない。その輪島が日本でプロレス・デビューしたのが、いまから39年前(1986年)の11月1日だった。世間的には、ちょっとした“輪島ブーム”になったものである。とはいえ、それから約2年後に輪島はプロレスを引退。果たして、輪島にとって、プロレスとはどういうものだったのか。彼がプロレス界にもたらした多大な影響とともに、振り返りたい(文中敬称略)。

デビュー戦が驚異の視聴率

 輪島は日大相撲部出身で、初の学生相撲から横綱へと上り詰め、第55代横綱・北の湖と“輪湖時代”を築いた名力士だ。得意の左下手投げは、「黄金の左」の異名をとったものである。しかし、引退後は親族の事業の失敗などで約4億円の借金に苦しみ、花籠部屋の親方株を担保にしていたことも発覚。1985年12月に廃業する。

 そのプロレス入りの第一報が報じられたのは、1986年の4月8日の朝、まさしく普段はプロレスを扱わない(*地方版で稀にある程度)、日刊スポーツの1面においてであった。

〈輪島のプロレス入り!今週中に発表〉〈馬場の全日本、12月デビューへ〉

 紛れもない独占スクープ。実は前日の午後5時から輪島は馬場の居城であるキャピタル東急ホテルで会談。プロレス入りについての最終交渉をおこなっていたのだ。仲介したのは輪島と同じ日大相撲部出身で、全日本プロレスのレスラーだった石川敬士。馬場は力士時代の輪島の結婚式に出席したり、ハワイでゴルフを共にしたりするなど、知らぬ仲ではなかったゆえ、話し合いはスムーズに運んだようだ。

 翌日には朝日新聞や読売新聞が後追いで輪島のプロレス入りを報道。正式なプロレス入り表明となる4月13日のキャピタル東急ホテルでの会見には、約250人の報道陣が集結した。翌日には、全日本プロレスにとってのライバル局であるテレビ朝日(新日本プロレスを「ワールドプロレスリング」で放映)のワイドショーでも、この“輪島、全日本プロレスでデビュー”が大々的に報じられた。

 会見の席で、「裸(力士)になって、裸(4億円の借金)になったのだから、もう一度、裸(プロレスラー)になって頑張りたいと思います」と名言を吐いた輪島は注目の的となり、視聴率にも貢献する。

 当時、全日本プロレスのテレビ放映は毎週土曜日の午後7時からだったが、読売ジャイアンツのナイター中継が被って中止になることが多く(※その場合は土曜の夕方から後日放映)、安定した人気を得ることが出来ず、視聴率も1桁に終わることが多かった。それが、先んじてアメリカでプロデビューした輪島の海外修業ドキュメントを放映すると、11.6%を記録(ビデオ・リサーチ調べ。以下同。1986年9月6日放送)する。

 そして、遂に迎えた11月1日の日本デビュー戦(vsタイガー・ジェット・シン。石川県七尾市総合体育館)では、レギュラー枠の午後7時からの生中継で、17.1%という高視聴率を叩き出した(ニールセンは23.7%)。決戦前に泊まった地元の旅館には50人以上の報道陣がゴッタ返す騒ぎとなった。

 翌年には、学生援護会のCMにも出演。キャッチコピーは、〈また基本から出直した男です〉。一からやり直す輪島の心構えが、世間に受け入れられたことになる。ミュージシャンかつプロレスファンの遠藤賢司は、輪島のこの姿勢に感動し、主にその日本デビューを扱った『輪島の瞳』という、25分を超える伝説の楽曲を制作している(※ライブ音源のみ存在)。

 相撲時代の輪島は、思うがままの行動で知られていた。髷を結えるまでは長髪にパーマをかけ、番付が上がると、リンカーンコンチネンタルで場所入り。四股は余り踏まず、ランニングを重視。加えて、「稽古」とは言わず、「練習」と言った。規格外の自由人だった。

 それでいて、どこか天然ぶりを思わせるキャラクターでも知られた。大関昇進の際は、「謹んでお受けします」と口上を述べた後、親方に、「えっと、次は何と言うんですっけ?」と聞き、花籠部屋中が大爆笑。横綱昇進時の口上でも言葉が続かなくなり、改めての報道陣との質疑応答で、「僕なりにマイペースでやります」と、どこかノホホンとしていた。相手に金星を献上した時の、取組後のアナウンサーとのやりとりもふるっている。

「あの『黄金の左』はどこに行ったのでしょうか?」

「今は金星を与えるので、やっぱり『黄金の左』です」

 プロレス入りしても、このようなエピソードは枚挙に暇がなかった。飛行機の中で、牛乳が飲みたくなったが、「ミルク」が何故か通じず、胸を絞るボディランゲージをしたこと、ホテルで洗濯物を干すハンガーがなかったため、スプリンクラーに吊るしたら作動してしまい、逆に水浸しになったこと、友人の家で冷蔵庫から出してたいらげたのがキャットフードだったこと(コンビーフと間違えたらしい)etc.。

 試合でも、場外でタイガー・ジェット・シンが投げて来たイスをかわそうとしたら、逆にリングの金具に頭をぶつけて額が割れ大流血(タッチしようとしたジャンボ鶴田が仰天したそうだ)したこともあった。

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