プロレスに“市民権”をもたらした元横綱「輪島」…「バカな俺を温かく迎えてくれた」リングに残した功績

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輪島がプロレス史に残したもの

 その輪島が、当時のプロレス、それもリング内に確実に残した多大な影響が二つある。

 一つは、新鋭・武藤敬司の急伸である。1986年11月の輪島デビューを聞きつけ、ライバルの新日本プロレスも人気面で負けておられず、まだデビュー2年目で海外修業中だった武藤を凱旋帰国させた。それも輪島デビューの1か月前である。

 武藤自身、この裏事情を認識していた。扱いもトップクラスで、出だしは藤波辰巳との2連戦が組まれ、その後も毎週テレビに登場した。武藤が本当にプロレス開眼するのは1988年からの2度目の海外修業からと筆者は思うのだが、この時期は、人気先行型ながら、多くのプロレスファンの認知を得たのは間違いなかった。

 二つ目は、1988年2月より、輪島が入院によりシリーズを欠場したことに関連する。病名は「第五頸椎骨折、左下腿骨陳急性骨折、右肘関節部粘液嚢腫」。特に第五頸椎は七つある頸椎のうちでも、老化現象が最も早く表れる場所で、完治には3ヵ月から半年かかる。輪島の力士時代からの主治医で、入院先でもあった山梨県韮崎市立病院院長・浅沼弘一氏のコメントが残っている。

「首を強く後ろに曲げて折ったという感じ。輪島自身が、“ラリアットにやられたのかな”と言っていたので、スタン・ハンセンのそれでしょうか……」

 だが、筆者が調べたところ、入院直前の1月シリーズに、ハンセンは来日していない。しかし、そのシリーズ23戦中、9試合も当たったレスラーがいた。

 天龍源一郎と阿修羅原の、“天龍同盟”である。

 輪島にはデビュー後、その元気なファイトが好評を博したこともあり、チャンスが次々と与えられた。デビューの翌年1987年3月には、NWA世界ヘビー級王座に挑戦し、6月には日本武道館大会のメインで、ロード・ウォリアーズの保持していたインタータッグ王座に鶴田とのコンビで挑戦している(いずれも惜敗)。

 だが、この直前に大きな動きがあった。当時、全日本プロレスのリングに上がっていた長州力が去って行ったのである。時期が時期だけに、「プロレス1年生の輪島が重宝されるのが嫌になったのでは?」という憶測も飛んだ。そんな状況下で、全日本主流の対抗勢力として、“天龍同盟”の狼煙を上げたのが、天龍だった。自分が熱い試合をすることで、長州の穴を埋めたかったし、何より長州を振り向かせたかったのである。攻撃の標的は天龍自身の言葉を借りれば、かつて本隊側でタッグを組んでいた以下の2人だった。

「鶴田の背中は見飽きたし、輪島のお守りにも疲れた」

 特に輪島への攻めは壮絶を極めた。同じ力士出身の天龍が、元横綱の体の強さに一目も二目も置いていたのである。すると、この熱い激闘に、極度に反応した男がいた。新日本プロレスに上がっていた前田日明だ。

〈全日プロで天龍選手と輪島選手のカラミで、とんでもないことをやっていたんだ。ナマでボッコンボコンやり合ってる。それは、プロとしての俺たちから見れば、とんでもないことだったんだよ。2人共、まともに受けてやり合ってる。それは半端じゃなかった。それを見た時、俺達はその上を行かなくちゃダメだと思ったんだ。あんな試合を天龍・輪島にやられちゃったら、俺達の影が薄くなってしまう〉(前田日明『真・格闘技伝説』より〉

 天龍が見初めたのが輪島なら、新日本内で前田が選んだのが長州だった。挙げ句、久々のタッグ対決で前田の蹴りが長州の顔面に入り、負傷。前田は解雇を余儀なくされる。めげなかった前田は第二次UWFを旗揚げし、そのブームと、果ては総合格闘技勢力の勃興に繋がって行く。天龍と輪島の大激戦がなければ、この流れはなかったと言って過言ではないのだった。

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