プロレスに“市民権”をもたらした元横綱「輪島」…「バカな俺を温かく迎えてくれた」リングに残した功績
「バカなおれを温かく迎えてくれた」
輪島が入院中、全日本の正規軍のバスが病院に横付けになったことがあった。見舞いに来たのだ。だが、輪島の姿は病床にはなかった。見ると、病院に併設されたグラウンドを何周もランニングしていたという。輪島は無類のトレーニング好きであった。いみじくも前出の浅沼院長は語る。
「トレーニングは、彼にとって癖みたいなもの」
もちろん、見舞いに来た全日本の選手たちも、それを知っていた。
プロレス入りを決めて以降、「腕立て200回、スクワット500回は準備運動」(輪島)。リングでの実戦トレーニング中、馬場のチョップが口に当たり前歯が吹っ飛び、それをみんなで探したことも。力士時代の癖で手をつく受け身が出来ず、その代わりに犠牲になった左肘は、最後には曲がらなくなった。プロレス入り会見時に92キロだった体重は、3ヶ月で120キロに。あの馬場に、「よくトレーニングするなあ」と言わしめた。練習パートナーだった若手時代の川田利明には、「稽古に付き合わせて済まないなあ。これを飲んで頑張ってくれ」と、マムシドリンクをプレゼントしていたという。浅沼氏は語る。
「ただ、練習を他人に見せたがるタイプでもなかった。学生時代から、そう言った意味では損をしてたね……」
1988年12月、年内のシリーズが全部終わった後、突然の引退。このシリーズはタッグ・リーグ戦で、輪島はザ・グレート・カブキと組み、専門誌が〈来年に期待出来る〉と激賞するほど、良い動きを見せていた。それ故、ジャイアント馬場自体、この引退の申し出には驚いたという。好ファイトは、本人の置き土産だったのか。輪島の述懐が残っている。
〈やめたのはもう体がついていかなかったから。他に理由はない〉(『Number』342号)
本人的に、屈辱の思い出があるという。自身の借金問題で、花籠部屋が消失した時のことだ。部屋の力士達を放駒部屋が引き取ることになり、悪いのは自分だから、横綱含め、角界時代の記録も消してくれと頼んだ。相撲に未練などなかったのだ。ところが相撲協会側は、「それは出来ない」の一点張り。さらに、「放駒親方は私と違って立派な方ですので……」という関係者が用意した文面を、報道陣の前で読まされた。
この時の悔しさを吐露する一方で、プロレスに関して、小中学生の時からの同級生に語った言葉が残されている。
〈(プロレスに)入ったのは良かった。バカな俺を温かく迎えてくれたよ〉(「サンデー毎日」2024年3月24日号)
厳しい攻めを食らった天龍にも、こんな回顧をしている。
〈(天龍の攻めは)悔しかったけど、心の中では仲間だと思ってた〉(『Gスピリッツ』22号)
2018年、輪島は下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱により逝去。後年、「どうしても行きたい」とし、実際、訪れた場所がある。それは、最後のパートナーとなった、ザ・グレート・カブキの切り盛りする飲食店であった。カブキの得意技(?)を模した、鮮やかな赤色や緑色の「毒霧ハイボール」を、嬉しそうに飲んでいたという。
[3/3ページ]

