フジテレビ、2ドラマで致命的ミス “時代錯誤”の脚本に若い視聴者はついていけない

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

狭い世界の物語

 フジテレビの連続ドラマ「もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう(もしがく)」(水曜午後10時)と同「小さい頃は、神様がいて」(木曜午後10時)の深刻な低視聴率が続く。理由は第1に自らが視聴者ターゲットを狭めてしまったことにある。【高堀冬彦/放送コラムニスト、ジャーナリスト】

 ***

「もしがく」も「小さい頃は、神様がいて」も最初から視聴者を限定した。これでは視聴率が上がらない。

「もしがく」の場合、主人公・久部三成(菅田将暉)ら登場人物が生きた1984年を知っていて、その上に演劇に多少の関心がないと、理解が難しい。

 まず、あの時代の空気は今とはかなり異なる。当時は人生の回り道がある程度、許されていた。単純に景気が良かったからだ。

 そのモラトリアム期間に劇団活動や映画づくり、バンド活動に励む若者が多くいた。若い時期限定のヤンキーも。スマホがなかったなど物質的なことも大違いだ。

 そんな時代に演劇に賭けた人々を描くのだから。誰にでも身近な物語とは言いがたい。大物脚本家である前に演劇人である三谷幸喜氏(64)の精神的な回顧録の色合いが強い。

 久部たちは演劇界の巨人であるシェークスピアの名作に基づき、「久部版 夏の夜の夢」をつくる。このネーミングは偉大なる演劇人だったつかこうへいさんの「つか版 忠臣蔵」(1982年)などのパロディだろう。演劇に関心がないと、ピンと来ないはずだ。

 三谷氏による踊り子たちへの敬意と温かい目もつかさんの「ストリッパー物語」(1975年)から来ているのではないか。これも演劇に無関心だと想起できない。

 久部のキャラクターは同じく偉大なる演劇人で憧れの蜷川幸雄さんを模している。だからシェークスピアに傾倒したり、灰皿を投げようとしたり。蜷川さんは演劇への情熱の表れとしてよく灰皿を投げた。これらのディテールも蜷川さんを知らないと楽しめない。

 物語の舞台は東京・渋谷のストリップ劇場。この設定もストリップと縁のない女性や若者たちには垣根となってしまったはず。物語に登場する常連客の神主・江頭論平(坂東彌十郎)は「リボンさん」と呼ばれているが、すぐに意味が分かったのはストリップ黄金期を知る人に限られただろう。

次ページ:若い世代には理解不能

前へ 1 2 3 次へ

[1/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。