捜査員に囲まれた“北朝鮮スパイ”が「バッグの中にあるタバコを吸いたい」と懇願した理由…ラジオを通じて「暗号指令」が飛び交った「北朝鮮」特殊工作の実態

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 自民党初の女性総裁、そして総理大臣に就任した高市早苗氏が進める政策の一つに「スパイ防止法」制定がある。さる5月27日には、高市氏が自民党の「治安・テロ・サイバー犯罪対策調査会」会長としてまとめた提言を首相官邸に提出、その中に外国勢力によるスパイ行為を取り締まる法律の導入があった。「日本はスパイ天国」――デジタル時代になった令和の今もよく指摘されるが、戦後から昭和の時代にかけて、わが国で明るみに出たスパイ事件は北朝鮮関係が最も多い。

〈その暗躍は「朝鮮戦争」の前後から活発になり、昭和二十五年の「第一次北鮮スパイ団」の検挙をはじめ、昭和二十八年の「第二次スパイ団」、昭和三十年の「第三次スパイ団」、昭和三十三年の「第四次スパイ団」の検挙など、その数は約五十人に及んでいる〉(警察庁警備局の資料より)

 昭和40~50年代初頭まで「北朝鮮スパイ」をめぐる摘発は相次いでいた。北朝鮮というと「拉致」が思い浮かぶが、当時、彼らが担っていた日本での特殊工作とは何だったのか。日本警察の摘発はどのように行われていたのか――昭和の時代に繰り広げられた、日本警察vs北朝鮮スパイのエスピオナージ(諜報戦)の一部を紹介したい。(全2回の第1回)

暗号表と乱数表

 昭和48年12月22日、土曜日の午後9時過ぎ――。

 師走の夜の羽田空港。国際線ロビーを行きかう乗客に隠れるようにして、いくつもの血走った目線が一人の男を凝視していた。ドイツ・ハンブルク行きの飛行機に乗ることはすでに把握している。搭乗手続きをすませ、待合室に向かう一人の男――。

〈がっちりした体格、グレーのオーバー、茶色の背広〉

 事前情報の「人着」と一致する40歳過ぎの男。ようやく日本を脱出できるという安ど感からか、笑みを浮かべているように見える。ボストンバッグを持った男が待合室に入ってきた時――その瞬間が「着手」だった。

「警察の者ですが」

 黒革の手帳の表紙を提示した捜査員を、男はぎょっとした表情で見た。首を動かすと、背後の左右に一人ずつ、捜査官が立っている。男は気づいていないかもしれないが、さらに周辺には直近防護の捜査員が目を光らせている。

「あなたは、日本名では“水山”さんですね?」

 捜査員に問われた男が答える。

「いや、違います。私は“鈴木”ですよ」

「ええ。“鈴木”というのは、あなたが持っている旅券の名前ですよね」

 男の手が震えるのを、彼の背後に立っていた捜査員は見逃さなかった。

「すぐそこまでご同行願います。バッグの中身も調べさせてもらいます」

 男は4年前の昭和44年10月、青森県西津軽郡の海岸に北朝鮮の工作船で上陸したスパイA(47=日本名・水山義夫)だった。

 空港内に用意した部屋に入ると、Aはこう言った。

「たばこを吸いたい……いいでしょうか?」

 捜査員は上着のポケットから自分のショート・ホープを取り出し、「どうぞ」とすすめた。

「そのたばこは辛いのでいらない。私のバッグに入っているチェリーが吸いたい」

 捜査員は仲間たちに目配せをした。全員がうなずく。それで確信した。「ボストンバッグのチェリーに、何かがある……」。

「ボストンバッグの中のものはダメです。チェリーがご希望なら、買ってきます。ここでお待ちください」

 捜査員が売店で買ってきたチェリーをAに渡すと、ぎこちない仕草でAは吸い始める。一服したくて……ではなく、明らかに動揺している。捜査員はボストンバッグの中から、Aのチェリーを取り出した。“カン”は当たった。一本のチェリーの中に、セロハン紙状のものに5ケタの数字がびっしり書き込まれた乱数表が収められていた。Aのオーバーも入念に調べると、右前すその裏芯地に沿って包帯状のガーゼを縫い付け、その中に暗号表が丸めて入っていた。

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