【べらぼう】「くっきー!」演じる衝撃の変人「葛飾北斎」 史実に残るドラマ超の変人伝説
後に大成する変人どうしの競い合い
蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)は、山東京伝(古川雄大)から押しつけられた変人の滝沢瑣吉(津田健次郎)を、作家見習い兼手代として耕書堂に置くことにした。だが、もともとが旗本の五男坊で、変人のうえに武士としての気位も高いので、早速、耕書堂でもとから働いている手代のみの吉(中川翼)と対立しはじめた。NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第40回「尽きせぬは欲の泉」(10月19日放送)。
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そこに絵師の勝川春章(前野朋哉)が一人の男を連れてきた。弟子の勝川春朗(くっきー!)で、それが瑣吉に輪をかけて強烈な変人だった。いきなり蔦重を指さして「たらーりたらーりたりらりらー。たらたらしてやがんな、旦那!」という。蔦重や絵師の北尾重政(橋本淳)が戸惑っていると、春章が「通訳」した。「ちょいと言葉が変ってるんだよ。水も滴る男前っていいたいんだよ」。
蔦重はその男に、「今度、黄表紙の挿絵をお願いしてえんで」といって、瑣吉が書いた草稿を手渡すと、紙を顔にくっつけて、まるで犬のように臭いを嗅ぐ。そこに瑣吉が近づくと春朗は、屁を放ったのに続いて口からもブーブーいい出し、草稿を丸めて食べてはじめ、また屁を放るのを繰り返した。その態度を蔦重が通訳した。「(草稿が)クソ以下だ、っていいてえのか」。
怒った瑣吉が春朗につかみかかろうとすると、蔦重は「やんなら表でやれ!」。それを受け、耕書堂前で2人のケンカがはじまった。蔦重は「仲が悪けりゃ、競い合うっていうじゃねえですか」。つまり、2人をケンカさせるのも、名作を生み出すための蔦重の戦略だというわけだ。そこで綾瀬はるかの語りが入った。「ちなみに滝沢瑣吉、のちの曲亭馬琴、このとき25。勝川春朗、のちの葛飾北斎、32。数々の名作を残すことになる2人は、こうして出会いました」。
実際、この2人はのちに何度もタッグを組むことになり、「北斎」という名が知られるようになったのも、蔦重が没して10年後、文化4年(1807)に刊行がはじまった曲亭馬琴のヒット作『椿説弓張月』の挿絵でのことだった。
早くから蔦重に見抜かれた才能
北斎の出自については不明の点も多いが、幼少期から絵を描くのが好きで、14歳から浮世絵版画の彫師の修行を重ね、19歳で勝川春章に入門している。その後、長い下積み生活を送ることになるが、師匠の春章は北斎のことを高く評価していたようだ。入門の翌年にはもう鱗型屋版の『吉原細見』の挿絵を描かせ、勝川春朗の名もそこから使いはじめている。
以後、北斎は黄表紙などの挿絵のほか、役者絵から美人画、相撲絵など幅広く手がけた。それらには北尾重政や鳥居清長ら浮世絵師のほか、狩野派や土佐派、さらには中国や西洋の絵画の影響までみられる。自身の画風を確立するまでのあいだ、きわめて広範なジャンルの作品を模倣、吸収しようと努めたということだろう。
寛政6年(1794)に勝川派を離れるまでの15年間を「春朗時代」と呼ぶが、この間には浮絵も描いている。これは西洋画の透視図法(消失点を決め、すべての線がその点に収束するように描くことで遠近感を強調する図法。線遠近法とも呼ぶ)を採用した絵で、こうした蓄積がのちの『富嶽三十六景』などの傑作につながっている。
早くもこの春朗時代に、蔦重は黄表紙の挿絵のほか、役者絵や武者絵、吉原の俄祭を題材にしたシリーズの作画なども依頼しているから、無名時代から北斎の才能を見抜いていたものと思われる。その流れを受け、寛政9年(1797)に蔦重が没してからも、2代目蔦屋重三郎が手がけた絵入り狂歌本などのほとんどに北斎が起用されている。
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