【べらぼう】「くっきー!」演じる衝撃の変人「葛飾北斎」 史実に残るドラマ超の変人伝説
生涯に93回も引っ越しをした理由
寛政6年(1794)に勝川派を離れて「春朗時代」に別れを告げた北斎は、一時、琳派の俵屋宗理を襲名した。陰影法や遠近法なども取り入れながら、次第に独自の画風を確立し、寛政10年(1798)ごろ、宗理の号を琳派の家元に返して、「北斎」を名乗るようになった。
こうして北斎の経歴を文字で記すと、かなり立派で、知的なイメージが醸されるのではないだろうか。たしかに、北斎は絵に関しては地道に経験を積みながら、自身の天才を磨いていった。しかし、絵のことを除けば、じつに全方位的に変人だった。
たとえば引っ越し。『葛飾北斎伝』によれば、生涯に93回も引っ越しをしたという。75歳までに56回というから、晩年ほど回数が増えたことになる。時には月に1回以上のペースで、1日に3回引っ越したこともあるといわれる。こうした回数は誇張だという説もあるが、常軌を逸した転居癖があったのは間違いないと思われる。
絵以外のことに無頓着すぎて、家が際限なく汚れたのが理由だという。北斎が時間を費やしたいのは絵を描くことだけで、描きながら書き損じや食べ物のゴミを投げ捨てる。食べ物は出来合いのものを買ってきて、器にも移さずに食べ、パッケージを放り投げていたようだ。そのまま掃除をしないので、室内にはゴミがあふれ返り、いわゆる「ゴミ屋敷」の状態になる。むろん、尋常ではない悪臭が漂っていたはずである。
それは完璧主義の裏返しでもあった。絵に関しては細部まで徹底的にこだわり、少しでも気に入らないと投げ捨ててしまう。つまり、絵の完成度が高まるほど、家はゴミ屋敷化するのである。そして、ゴミの量が限界に達すると、絵具など必要なものだけを持って近くの空き家に引っ越したという。自宅を構えたことも1回だけあるが、あとは借家を転々とする人生だった。
30回も名前を変えた
90年の生涯で2回結婚し、2男3女(2男4女ともいわれる)に恵まれたが、子供も衣食住にこだわらない北斎の影響を受けたということだろうか。短い結婚生活ののちに実家に戻った三女の栄(葛飾応為)は、父親の傍らで絵筆をとり続けたが、彼女もまた炊事も洗濯も一切せず、絵だけを描きながら父と一緒にゴミ屋敷をつくり続けたという。
実際、北斎を訪問した人物による、「食べ物の包みが散らかり、娘もゴミのなかに座って絵を描いていた」という証言が残されている。
また、35歳で北斎を名乗る前に、勝川春朗、俵屋宗理という雅号を使った旨をすでに紹介したが、北斎の名前の数はそんなものではない。生涯に約30回も新しい名を名乗ったのである。「北斎」という名は、空にあって唯一動かない北極星にちなんでつけられたといわれ、衣食住に一切の関心を払わずひたすら画業に専念した北斎らしい。
40歳で「画狂人」を名乗り、これも絵三昧の生活にふさわしい名だといえよう。60歳で「画狂老人」、75歳ごろには川柳のペンネーム「卍」をくっつけて「画狂老人卍」とも名乗っている。なかには「あほくさい」というものもあった。春画を描くときの「紫色雁高(ししきがんこう)」「鉄棒ぬらぬら」などという名もあった。もっとも、こうした名には副次的な号も多く、必ずしも改名といえないが、これだけ頻繁に名を変えながら描いた絵師はほかにいない。
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