【べらぼう】蔦重のお膳立てで山東京伝に続き 『南総里見八犬伝』曲亭馬琴が出てくるまで
再起を図る蔦重が受け入れた「作家」
同業者組合である株仲間をつくることが許されていなかった地本問屋(娯楽的な本を出版し販売する出版社)に、ようやく仲間の結成が認められた。御上が統制しやすくするためとはいえ、業界の利権が認められることにもなり、今後も業界が存続するためには、同業者組合はあるに越したことはない。
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NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第39回「白河の清きに住みかね身上半減」(10月12日放送)では、地本問屋仲間ができて張り切る蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)が、山東京伝(古川雄大)作の洒落本(遊廓での女郎と客のやりとりなどを描いた小説)3作を一挙に刊行した。禁じられた「好色」で「みだら」な内容ではないことを示すために「教訓読本」と銘打ち、庶民向けの道徳書のように仕立て、厳しくなった検閲を潜り抜けようとしたのである。
その結果、日本橋通油町の耕書堂には多くの客が押しかけ、店先は賑わいを増したが、それも束の間。奉行所の与力と同心がやってきて、洒落本3冊は絶版だと言い渡され、蔦重と京伝は牢屋敷に連れていかれてしまった。奉行所の裁きの結果は、京伝に手鎖50日、蔦重には身上半減の判決が下された。手鎖50日とは、鉄製のひょうたん型の手錠で両手首を拘束し、そのままの状態で50日間、自宅で謹慎させるという刑だ。身上半減とは、財産の半分が没収されることだった。
もちろん、蔦重には大きすぎる打撃だが、なんとか店を立て直そうとする。そして第40回「尽きせぬは欲の泉」(10月19日放送)では、あらたな執筆を依頼するために、京伝のもとを訪ねる。すると妻の菊(望海風斗)から、逆に頼みごとをされる。京伝のもとに居候している滝沢瑣吉(津田健次郎)の面倒を見てほしいというのである。
そこで蔦重は、この瑣吉を耕書堂に置くことを決めるが、この瑣吉こそ、のちに『椿説弓張月』や『南総里見八犬伝』などを書く曲亭馬琴(滝沢馬琴)である。
戯作をリードした武士階級の退場を受けて
「べらぼう」で蔦重が刊行している庶民向けの通俗的な読み物は「戯作」と総称される。戯作の「戯」とは、おもしろさや楽しさを求める「戯れ」を指す言葉で、戯作とは、戯れに書き、戯れに読むものだった。
この「娯楽のための文学」は、意外にも武士からはじまっていた。江戸時代、武士のための学問といえば儒学だったが、儒学の経典である経学のなかでも重要な『詩経』は、漢詩の源流とされている。つまり、儒学には経学と漢詩が含まれるが、江戸中期には、堅苦しい経学を離れて漢詩にばかり親しむ武士が増えた。
要するに、「文学の世界に遊ぶ」武士が増えたということで、そういう武士階級の知識人のなかから、持ち前の教養を駆使して、より卑俗な内容を書く人たちが現れた。彼らが戯れに書いた「戯作」は、寛延4年(1751)に8代将軍吉宗が死去して享保の改革が終了すると、次々と出版され、とりわけ田沼意次の時代に花開いた。
その一人が、出羽国秋田藩の江戸留守居役だった朋誠堂喜三二であり、駿河国小島藩の年寄本役だった恋川春町であり、幕臣(御家人)だった大田南畝だった。しかし、松平定信による寛政の改革がはじまり、出版物への規制が強まり、とりわけ武士への締めつけが厳しくなった結果、喜三二は藩主の命で戯作の筆を折り、春町は命を落とし、大田南畝も基本的に筆を置いた。
その結果、町人階級出身の人気作家、山東京伝への期待が否応にも高まることになったのである。
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