【べらぼう】蔦重のお膳立てで山東京伝に続き 『南総里見八犬伝』曲亭馬琴が出てくるまで

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黄表紙を書けば1万部は売れた

 本名は岩瀬醒、通称は京屋伝蔵といった山東京伝は、質屋の伝左衛門の長男として江戸の深川木場町(江東区木場)に生まれた。非合法の遊郭である岡場所がたくさんあった深川近辺で生まれ育ったことが、のちに遊里を描いた洒落本のヒット作を書く土台になったのだろう。また、生まれ育った場所ゆえに、吉原で育った蔦重と馬が合ったのかもしれない。

 北尾政演の名で挿絵絵師としても活躍し、とくに蔦重は当初、文才よりも画才を買っていた。蔦重初の出版物である安永3年(1774)刊行の女郎評判記『一目千本』の挿絵も、政演が担当している。だが、蔦重も次第に文才にも注目するようになり、天明5年(1785)に出した『江戸生艶気蒲焼』は大ヒットし、黄表紙(大人向けの絵入りの物語)の屈指の傑作と評されている。

 曲亭馬琴が書いた『近世物之本江戸作者部類』によれば、京伝のような売れっ子作家が書いた黄表紙は、1万部以上売れたという。印刷技術も宣伝機会も流通網もかぎられていた当時、1万部以上というのはかなりの売れ行きだったと思われる。

 だから、喜三二や春町の退場後、蔦重らの期待が一身にかかった京伝だったが、彼の創作意欲もまた減退していた。京伝が政演として挿絵を担当した石部琴好の黄表紙『黒白水鏡』が、寛政元年(1789)に絶版処分を受け、琴好は手鎖のちに江戸払に処され、京伝も罰金刑になった。こうして処罰されたことで、戯作の執筆をやめることを本気で考えたようだ。

山東京伝に弟子入り志願し曲亭馬琴

 寛政2年(1790)には吉原の扇屋の女郎、菊園を身請けした。つまり妻に迎えた。戯作の世界から足を洗い、優雅に暮らそうと思ったのだろうか。しかし、京伝にまで戯作から離れられてしまっては困る蔦重の必死の説得を受け、断筆を思いとどまっている。

 そして寛政3年(1791)正月、挿絵もみずから手がけた3冊の洒落本『仕懸文庫』『錦之裏』『娼妓絹籭』を、蔦重のもとから一挙に刊行するが、これが『べらぼう』の第39回で描かれたように絶版とされ、手鎖50日の刑に処されてしまった。

 その後は、さすがに洒落本の執筆はやめたが、執筆活動自体は続けた。妻に迎えた菊園は、吉原で女郎生活を送ると体が蝕まれて長生きできないという例に漏れず、結婚からわずか3年で死去。その後、喫煙用の小物をあつかう店「京屋伝蔵店」を開店し、みずからデザインした紙製の煙草入れを大ヒットさせている。

 そんな京伝への弟子入りを志願したのが、のちの曲亭馬琴である滝沢瑣吉だった。寛政2年(1790)に京伝を訪ね、弟子入りを志願したが、そのころ京伝は弟子を取らなくなっており、断られている。ただし、親しく出入りすることは許され、寛政3年(1791)の秋に深川の家を洪水で失うと、京伝のもとに居候している。続いて寛政4年(1792)3月には、蔦重に見込まれ、耕書堂の手代として雇われるのである。

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