【べらぼう】蔦重のお膳立てで山東京伝に続き 『南総里見八犬伝』曲亭馬琴が出てくるまで

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蔦重と京伝のラインの先に馬琴

 ところで、馬琴は武士の出身だった。旗本の松平信成に仕える滝沢興義の五男で、9歳のときに父が亡くなり、長男が家督を継いだものの、間もなく馬琴は家督を譲られている。だが、主君の孫が愚鈍なのに耐えかねて出奔。その後、武家の渡り奉公をするが、次第に武士に嫌気がさして、戯作を指向するようになったという。

 その後、耕書堂の手代になるにあたっては、もちろん京伝の推薦があり、蔦重も単に手代として採用したのではなく、馬琴の才能に目をつけていたようだ。そして、蔦重の店の手代になる際に、武士としての名も身分も潔く捨て、商人として生きる決心をした。

 馬琴が旺盛に創作をはじめるのは寛政8年(1796)からで、翌寛政9年には蔦重は亡くなってしまう。だが、道筋をつくったのは蔦重と京伝のラインで、のちの馬琴の傑作はその申し子だといえる。また、馬琴は武士の戯作者がいなくなったのちの、町人作家の時代に登場した町人作家である。だが、武士出身ならではの教養があればこそ、傑作を書けたという指摘はできると思う。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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