「ほっとする人」と信頼されて… 関西放送界の至宝「新野新さん」の素顔【追悼】
物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は9月25日に亡くなった新野新さんを取り上げる。
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持ち味は柔らかさ
放送作家の新野新(しんのしん)さんは、関西ではおなじみの顔だ。請われてラジオやテレビに出演するようになり、タレントとしても有名になった。
そのきっかけは1978年に始まった、ラジオ大阪の深夜番組「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」である。週1回、日曜深夜に2時間半の生放送。笑福亭鶴瓶さんとのトークが熱狂的な人気を集めたのだ。
同番組のディレクターを務めていた岩本重義さんは振り返る。
「息子と母親がうだうだとしゃべっているような番組を当初考えていたのです。鶴瓶さんに打診したところ、新野先生が相手ならやってみたいとの返事。新野さんは口下手だよ、と言いながらも引き受けて下さった」
放送開始当時、新野さん43歳、鶴瓶さん26歳。新野さんはじっくり聴いて、いい頃合いで相づちのように言葉を入れる。有名人の誰が握ったおにぎりなら食べられるか、郷ひろみや大竹しのぶはいいが、さだまさしや村田英雄は遠慮したいなどと、全くどうでもいい談義が盛り上がりもすれば、防衛問題に話が及ぶことも。
「打ち合わせをせず全て任せていました。世間話でリスナーの共感を呼べたのは二人の対話力。新野さんは時にきつい内容を話しても柔らかく聞こえる持ち味があった」(岩本さん)
松竹芸能で鶴瓶さんのマネージャーを務めていた時期もある演芸評論家の相羽秋夫さんは述懐する。
「新野さんは人あたりも面倒見もいい。聞き上手で相手を心地よくしゃべらせた。鶴瓶さんはすでに人気者でしたが、この番組で何気ない出来事をほんわかと面白く話す才能が伸びました」
「ほっとする人だと信頼された」
35年、大阪生まれ。生家は氷問屋を営んでいた。早稲田大学文学部に進み、英文学を専修、58年に卒業。
東宝に入社、大阪の北野劇場での演出助手を経て、放送作家として独立した。
「新野さんの自宅を芸人や放送界の人々が自由に訪ね、サロンのようでした。聞き役で、意見したり皆を束ねたりしない。ほっとする人だと信頼された」(相羽さん)
「ぬかるみの世界」を機にじわっと面白いと人気者に。番組は89年まで続いた。
「リスナーからの大量の投書を読みこなす、番組への二人の丁寧な姿勢はずっと変わらなかった」(岩本さん)
放送作家の古川嘉一郎さんは思い返す。
「放送の世界はかっこいいもんやないよと言い、実直でした。アクの強さなんて全然ない。おとなしくて、欲がなく面倒くさがり。さりげなく相手を気遣った」
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