「“不義”で公明党を激怒させ、裏で学会をボロクソに…」 連立解消のウラに高市早苗氏「30年前の因縁」も

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「笑顔を振りまき、強烈な印象だった」

 公明党の連立離脱表明を受け、いきなり難局への対応を迫られることになった自民党の高市早苗・新総裁(64)。彼女の来歴をたどってみると、地元の奈良県には約30年前からの「公明党との因縁」が横たわっているのだった。政界関係者が高市氏の「不義」を実名で証言する。

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 神戸大学を卒業した高市氏は1984年に松下政経塾に入塾し、「政治的キャリア」をスタートさせるのだが、

「私が高市氏に初めて会ったのは、86年ごろのことだったと思います」

 と話すのは、奈良県選出の奥野誠亮元法相の秘書を務めていた石崎茂生氏だ。

「ある日、衆議院第2議員会館に、地元関係者の紹介で奥野先生に面会を求めてやって来ました。用件は『松下政経塾を間もなく卒業する。政治家を志望しているので修業させてほしい』とのこと。笑顔を振りまき、強烈な印象だったのでその時の様子はよく覚えています」(同)

 女性秘書と石崎氏は“高市氏にうちの事務所に入られたりしたら大変だな”と感じたという。高市氏に対して奥野元法相は、

「『修業するなら政治の現場を経験した方がいいと思うよ』と言いました。そして政治的には立場を異にしていた人だったけれども自民党奈良県連会長の浅川清県議会議長(肩書いずれも当時)に連絡し、『次の県議選の候補者にできないか』と要請、高市氏には浅川氏を訪ねるよう伝えたのです。確か高市氏は『少し考えさせてください』と言って帰ったと記憶しています」(同)

 それから日を置かず、

「高市氏は『私は国会議員を目指しているのであり、県議選には出ません』と回答してきました。私たちは気が付いていませんでしたが、県議選を固辞したものの、それから浅川氏とは深い信頼関係を構築していたようです」(同)

「婦人部から大不興を買った」

 その後、民主党の有力女性議員のスタッフとして働いていたアメリカから帰国後に松下政経塾を卒業し、テレビ番組のキャスターとして活躍していた高市氏が挑んだ最初の選挙は92年の参院選。自民党の奈良選挙区では、服部安司参議院議員(当時)の三男、服部三男雄氏も出馬を目指していた。どちらも後に引かず、後腐れなく公認候補を決めるため、当時珍しかった予備選挙が行われることに。その時“県連の拡大役員会メンバーで決しよう”と裁いたのは、県連会長に就いていた奥野元法相だった。

「予備選に臨むにあたって、奥野先生は『負けた方は参院選には立候補しない』ことを求め、さらに『敗者は本選挙で協力する』と二人に確約させました。結局、予備選は服部氏の圧勝でした」(石崎氏)

 しかし高市氏はその結果に納得しなかった。

「県連事務局は選挙事務の運営に瑕疵(かし)がないよう、細心の気を配っていましたが、彼女は、不在者投票や有権者名簿の扱いなどが『アンフェアだった』とクレームをつけたのです。結局、高市氏は約束をほごにして無所属で立候補。奥野先生は本選の応援演説で高市氏のことを『不義の人』と批判しました」(同)

 96年10月、初めて小選挙区制の下で行われた衆院選では公明党が一翼を担っていた新進党公認で出馬し、奥野元法相の元秘書・森岡正宏氏を破って2選。

「ところが当選後半月で高市氏は手のひらを返し、新進党を離党。自民党に移ったのです。そのため選挙で全面協力していた公明党・創価学会、特に婦人部から大不興を買いました」

 石崎氏はそう語る。

「新進党離党の表向きの理由は小沢一郎氏の『大減税』案への不信感からだと説明していましたが、信じる関係者は誰もいません。元々自民党に入りたかったのでしょう。この時の因縁が、今日に至る公明党・創価学会の高市不信につながっているのです」(同)

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