「ノーベル賞」を同時受賞した“日本の研究者4人”若き日の秘話 「神様じゃないかと思った」「従兄弟同士で切磋琢磨」
手作りラジオで甲子園中継を聴いた日
福井中学には、県下から優秀な生徒が集まっていた。同級生の永田金吾氏も語る。
「物理、化学、数学、英語、何でも出来た。数学などは在学中、1問も間違えたことがなかったほど。中3の時には独学でフランス語を勉強していた。ただ、小太りな体型だったからか、体操は苦手だったようですね。南部君は大人しくてやさしい性格で、誰からも親しまれていた。家庭の影響というより、本人が天才だったというのが私の印象です」
南部氏は一高から東京帝国大学に進み、理学部物理学科を卒業。大阪市立大学教授を経て、1956年に本格的に渡米、以後、シカゴで生活。
「小学校の頃から自分にとってのヒーローはトマス・エジソンで、彼のような発明家に憧れていました」
と、南部氏は語る。
「モノを作るのが好きで、小学校5、6年の頃に自分でラジオを作ったことがありました。叔父の遺品から鉱石ラジオを作る手引書を見つけ、中には色んな数式が書かれていましたが、それをなんとか解読しようと格闘したことを今でもよく覚えています。部品も自分で買ってきて、自分で組み立ててハンダ付けもした。完成したラジオで甲子園の全国中等学校野球大会の中継を聴きました。それが、1933年の中京商対明石中の延長25回の試合だったんですよ。感激しましたね」
何でも人に頼らず、まず自分で考えよう
学問好きは父親の影響だったようである。
「父が教育熱心だったのは確かです。私の父は文学好きで、小説を書こうという野心を持っていました。“小説を書くためには何でも知っていないといけない”というのが父の信条で、サイエンスもそのひとつとして必要だと考えていたようです。
家にはあらゆる種類の本がありましたが、学齢前の私に『子供の科学』という当時ポピュラーな科学雑誌を与えてくれました。動物や植物の絵などは見ているだけで面白かったのですが、学齢前の私には読んでもわからないところがありました。でも、そこで何とかわかろうとした、それで自分でものを考える習慣が出来たと思います。もしかしたら父は、わざとちょっと上の学年のものを与えていたのかもしれません」
理論の提唱から半世紀近くを経ての大願成就。
「どうしたら我が子にノーベル賞を取らせることができるか? それは私にはわかりません。ただ、私が子供たちに言いたいのは、“何でも人に頼らず、まず自分で考えよう”ということです。人から話を聞いて、あるいは本を読んで疑問を感じたら、何故そうなるのかまず自分の力で解いてみようと思うこと、そしてそれを楽しむことです」
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