「お前の親の顔が見たいよ」「同じ親だろ」と言い合って… 「ビリー・バンバン」菅原進さんが振り返る兄の“素顔”【追悼】
物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は9月11日に亡くなった菅原孝さんを取り上げる。
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ぶつかり合って成長
菅原孝さんと3歳年下の弟・進さんによる「ビリー・バンバン」は、日本での兄弟デュオの先駆けである。
「白いブランコ」で1969年にデビュー。澄んだ歌声が人気を呼び一躍フォーク界の代表格に上り詰める。以来、中断の時期をはさみ、56年にわたり兄弟は共に音楽活動を続けてきた。
弟の菅原進さんは語る。
「声の質が似ているので、ハーモニーを奏でられました。ヒットが続きありがたかったですが、兄とずっと一緒にいるうちにお互い考え方のささいな違いが気になってきた。本当に仲の悪い時期もありました。でも兄弟がけんかをしない方がおかしい。ぶつかり合ううち、だんだん成長につながったと今では感じています」
孝さんは44年生まれ。父は東京都職員で経済局長などを務めた。兄弟の音楽好きは母の影響で、作詞作曲家の浜口庫之助さんの元へ歌のレッスンに通った。
孝さんは慶應義塾大学、進さんは青山学院大学に学ぶ。進さんはすでにアマチュアバンドで頭角を現しており、当時のメンバーには、せんだみつおさんがいた。
「決定的な対立はなかった」
レコード会社の方針で、兄弟デュオとしてデビュー。
「僕は高校の頃から音楽一筋。兄は音楽以外にも関心が広く、会社に就職しても成功したと思う」(進さん)
「白いブランコ」に続き、「さよならをするために」がヒットし、72年、NHK 紅白歌合戦に出場した。
当時の人気を知る音楽評論家の安倍寧さんは言う。
「淡々と歌っているようで、哀愁や温かい心、優しさが伝わってくるのです。反戦のような社会的メッセージは含んでいなかった」
順風満帆に見えたが、
「予定に縛られ僕はマンネリを感じてきた。兄は芸能活動を続けること自体が大切と考えていた。ただ、兄弟げんかは尾を引かず、決定的な対立はなかった」(進さん)
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