「ベトちゃんドクちゃん」15時間に及ぶ分離手術 参加した日本人医師の証言「2人ともこの世を去るのではないかと思うほど困難な手術だった」

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日本で大規模な支援運動

 ベトナム戦争での枯葉剤散布は、実験を含めると昭和36(1961)年8月から始まった。米軍による散布だが、昭和46(1971)年以降は当時のベトナム共和国(南ベトナム)軍が行っている。強い毒性を持つ枯葉剤は、散布地域の住民を中心に現われた多大な健康被害の原因とされた。

 昭和56(1981)年2月25日、結合双生児のベトちゃんドクちゃんはかつて枯葉剤が散布されたコントゥム省サタイで生まれた。やがて日本で支援運動が起こり、昭和61(1986)年にはベトちゃんが急性脳症を起こしたため来日して治療を受ける。2人は一命をとりとめたものの、ベトナムへの帰国後にベトちゃんの容体が悪化したため、現地の医師団は分離手術を決断した。

 昭和63(1988)年10月4日、ベトナムでこの難手術に挑んだのは、ベトナム人医師70名と日本人医師4名。当時、日赤医療センターの麻酔科部長だった荒木洋二氏は、手術後に目覚めたドクちゃんから「おじいちゃん」と呼ばれるほど頼られる存在だった。そんな荒木氏は2006年に「週刊新潮」紙面で当時を振り返り、手術への参加を決めるに至った思いなどを明かしていた。

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(以下、「週刊新潮」2006年2月23日号「日本人『麻酔医』が見た『ベトちゃんドクちゃん』分離手術」を再編集しました)

初めて来日したのは昭和61年6月

 昭和63(1988)年、全世界の注目を浴びる中、ベトナムで行われたベトちゃんドクちゃん(7=当時)の分離手術。現場には日本赤十字医療センターから派遣された、1人の日本人麻酔医の姿があった。

「私はあの分離手術で2人のうち1人、あるいは2人ともこの世を去るのではないかという不安を持ち続けていました。それだけ困難な手術だったのです」

 こう振り返るのは、当時、日赤医療センターの麻酔科部長だった荒木洋二氏(77=取材当時)。

 ベトナムの坐骨結合体双生児・ベトちゃんドクちゃんが初めて来日したのは昭和61(1986)年6月のこと。彼らは骨盤が1つで、大腸、直腸、腎臓、膀胱、肛門、性器を共有している。それまでは元気に育ってきたのだが、この年5月、ベトちゃんが急性脳症を起こした。

 もしベトちゃんが死亡すれば、ドクちゃんの生命も危機にさらされる。ベトナム側医師団は、分離手術の検討も含め、主治医と親交のあった日赤医療センターに救援を求めたのだ。

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