「ベトちゃんドクちゃん」15時間に及ぶ分離手術 参加した日本人医師の証言「2人ともこの世を去るのではないかと思うほど困難な手術だった」

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日本側は若い医師を送る選択もあった

 結局、この来日では約4カ月間滞在。ベトちゃんの意識は戻らなかったが容体は落ち着き、彼らはベトナムに帰っていった。

 だが、ベトちゃんの容体はやがて悪化し、医師団は昭和63(1988)年、遂に分離手術を決断。このときにアドバイザーとして派遣を要請されたのが、荒木医師だった。

「主治医は、ベトナムで一番手薄なのは麻酔と術後管理だと言っていて、そこで“ドクター荒木に来てほしい”という要請になったのです。若い医師を送る選択もありましたが、もし手術が不成功に終わった場合、彼らが責められるかもしれない。それならばこの際、この苦労は私が背負おうという結論に達したのです。そう決心すると、それまでのもやもやした気分も晴れ、さわやかな気持ちになったものです」

 手術が行われたのは10月4日。まだ朝6時という頃から、病院の前は黒山の人だかりだった。

「この日のために用意され通行証を提示して手術室に入り、さっそく麻酔の準備を手伝いました。ベト、ドク両君が手術室に入ってきたのは午前6時半過ぎ。ドク君は半ベソをかいていましたね。周りからは、もう彼らに会えないかもしれないと、別れを惜しむ人たちのすすり泣きの声も聞かれました」

約15時間に及ぶ大手術

 麻酔、消毒に2時間以上を要し、執刀に入ったのが午前8時45分。腸と膀胱を分割し、分割できない肛門と性器をドクちゃんに与える分離手術が終わったのが午後7時15分。最後の皮膚縫合が完了したのは午後11時35分。約15時間に及ぶ大手術だった。

「手術が終るとドク君は“ワー”と喚いたあとに“オジーチャン”“オシッコー”“イタイヨー”と日本語で叫んだのです。周囲に通訳しなければならなかったのには面食らいました」

 いずれもドクちゃんが日本で覚えた言葉で、“オジーチャン”というのは荒木医師のこと。やはり、頼りにしていたのだろう。

 とはいえ、荒木氏は「ベトナムにおいて、ベトナム人による、ベトナム人のための手術が成功したことが、あの手術の意義」と強調した。

(以上、「週刊新潮」2006年2月23日号「日本人『麻酔医』が見た『ベトちゃんドクちゃん』分離手術」より)

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分離手術後も生きるための闘い

 この分離手術はベトナムで初、世界で7件目の成功例だった。荒木氏が語った通り、ベトナム医学史上の大きな功績である。だが、ベトちゃんとドクちゃんはその後も、生きるための闘いを続けた。

 ドクちゃんが松葉づえでの歩行訓練を始める一方、寝たきりとなったベトちゃんは介護を受ける身に。やがて2人の敬称が「ちゃん」から「さん」に変わった1998年、ドクさんはホーチミンの高等職業学校に進学する。卒業後はカルテ作成などの病院事務に従事し、2006年12月にベトナム人女性と結婚した。

 新居を構えたドクさんはベトさんを引き取って夫妻で介護したが、自身も10回以上の手術を受けるなど治療は続いていた。2007年10月6日、ベトさん死去。荒木氏は、NHKの取材に対しこう答えている。

「当時、ベトさんは意識がない状態で、『大手術に持ちこたえられるだろうか』と思っていました。これまでおよそ20年、よく頑張りましたし、ベトナムの医師団の力も大きかったと思います。ベトさんには、弟のドクさんと奥さんの幸せを見守ってほしい」(「NHKニュース」2007年10月6日付)

 ドクさんの妻は2009年10月25日、男女の双子を出産。長男は日本語の「富士」を意味する「フーシー」、長女は「桜」を意味する「アインダオ」と名付けられた。

 ドクさん一家は現在もホーチミン在住。ドクさんは病院事務の仕事を続けながらボランティア活動に尽力し、親善団体「ドク・ニホン」の理事も務めている。2024年5月には、懸命に生きるドクさんの姿をとらえたドキュメンタリー映画「ドクちゃん フジとサクラにつなぐ愛」が日本でも公開された。

デイリー新潮編集部

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