「ボーカルがマネージャーを殴り、病院送りに…」 「SIAM SHADE」ギタリストが明かす解散の真相 「メンバー間の乱闘で警察が来たことも」

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復活ライブの裏で

 先に述べたように、解散後もSIAM SHADEは4度に亘って限定復活し、ライブを行っている。2007年に、長らくSIAM SHADEを支えたチーフマネージャーが49歳の若さで亡くなった。上記の、栄喜から暴行を受けたチーフマネージャーでもあるが、その追悼ライブがはじめの復活だ。その後は2011年に東日本大震災の発生を受けてのチャリティーライブ、2013年には全国7カ所でチーフマネージャーの七回忌公演ツアーを行い、そして2015年から2016年にかけてデビュー20周年の記念ライブを行っている。こうして見ると、解散から時が経つに連れ、傍からは関係も徐々に修復されたかに見えるが、

「実態は、解散前と同じでした。2002年の解散ライブ直後、DVDの制作中にスタジオに集まった時には、やはりメンバー同士で揉め事が起こり、また乱闘騒ぎに発展しています。この時は止めに入ってもまったく収まらず、警察まで呼び寄せる騒ぎになったほど。周囲から強く促されたこともあり、解散後も限定で活動をしましたが、追悼ライブや復興チャリティーライブなど、誰かのために活動する時はまだましなものの、自分たちのために行うライブとなると、いつも争いが起きる。常にトラブルを抱えながらライブを行っていました。はじめの追悼ライブの時などは、揉めてメンバーがライブをボイコットしてしまうという恐れも捨てきれなかったので、メンバー5人で、もしボイコットしたら賠償金を支払うという誓約書を交わしたほどでした。一触即発の危機を抱えたままでの活動でした」

 こうして解散後も溝は埋まらないまま、【前編】で述べたように、ライブやグッズの収益の使途を巡り、2018年、DAITAサイドに内容証明が届く。そして、2021年に2件の訴訟が提起され、終結後には今度はDAITAが残りのメンバーを訴えた。溝は修復不可能に見えるまでに広がって、現在に至るのだ。

 なぜメンバーは1:4に分かれたのか。DAITAは言う。

「もともとメンバーの中でもっとも距離があったのは、私と栄喜でした。解散後、NATCHINは、栄喜と仕事を共にするようになり、また、残りの2人はもともと私よりNATCHINと距離が近い。そうしたことで、メンバーが、私と私以外という構図になったのでしょう」

 一連の訴訟が始まって、気が付いたこともあるという。

「印税の配分です。解散前は、各メンバーに、5分の1ずつ均等割りにして配分していましたが、DVD制作時のスタジオ乱闘騒ぎの時、栄喜の強い要望により配分率の変更を余儀なくされた結果、作曲、作詞、編曲者それぞれに3分の1の配分にすることになり、全員が合意したはずだった。しかし、訴訟になって改めて調べてみると、その割合通りに実際の配分がなされていないことがわかった。なぜこのようなことになったのか、疑問は膨らむばかりです」

ファンへの思い

 新たに訴訟が始まったことで、SIAM SHADEの復活はより困難になったと言えるだろう。ファンに対しては何を思うのか。

「今まで沈黙しておりましたが、私が話す事によってお騒がせしてしまって本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。ただ、今後も裁判が続くので、ここで真相を話しておくことも責任の取り方のひとつではないかと思いました。私は今でもSIAM SHADEは唯一無二のバンドだと思っています。その誇りを胸に、これからの音楽活動を精一杯行っていく。それが私の務めだと思っています」

 ***

 本件について、リーダーのNATCHINのオフィシャルサイトの問い合わせメールと、栄喜の所属事務所のメールに質問書を送った。しかし、双方とも回答はなかった。

 【前編】では、DAITAが、残りのメンバー4名を相手取ってなぜ訴訟を提起したのか、その理由を明かしている。

デイリー新潮編集部

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