30代同棲カップルを毎夜悩ます“謎の赤ん坊”の泣き声 その矢先に「私、妊娠したみたい」……【川奈まり子の百物語】

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泣き声はどこから

 その泣き声を初めて聞いたのは、新居のマンションに入居した日の夕暮れどきのことだった。

 新居近くのコンビニで買い物をして帰ると、どこかで赤ん坊が声を限りに泣いていた。声の近さから、右か左のお隣さんに赤ちゃんがいるのだろう、と和真さんが言うと、歩さんは「勘だけど、右隣のうちには小さな子はいないと思う」と呟いた。

「荷物を運び入れるとき、中年の女の人が見に来てた。…………ねえ、引っ越し挨拶とか、しなくていいよね? あの人、なんだか気味が悪かったから、ちょっとね」

「いいんじゃない? どうせ長くは住まないし。会ったときに挨拶する程度で」

 そんな会話の間も、泣き声は続いていた。最初はあまり気にしなかったが、1時間経ち、2時間経ち……次第に怖くなってきた。

「ねえ、こんなにずっと泣いているの、さすがにヤバくない? 通報した方がいいかな」

「近所のどこかで赤ちゃんが虐待されているかもって? どこの家で泣いているかもわからないのに。そしたら、引っ越しの挨拶をするふりをして、お隣に偵察に行ってみようか。歩ちゃんは、ここで待ってていいよ」

 歩さんは“右隣の家には幼い子どもはいないだろう”と予想していたが、和真さんには、まさに右側から泣き声が聞こえているように感じられていたのだ。

隣人たち

 結局、彼1人で両隣の家を訪ね、偵察を兼ねた挨拶をした。右隣の家からは40~50代の男女が出てきて、彼に対応した。

 歩さんが「気味が悪い」と言っていた女性は、特に不気味な感じもなく、単におとなしそうな人という印象。男性の方も物静かで控えめなタイプに見えた。

 左隣の家からは高齢男性が出てきた。愛想の悪い老人で、終始無言だった。身なりがだらしなくて汗臭く、独居老人かと咄嗟に思ったが、その玄関には女ものの靴が置いてあった。

 しかし、いずれの家からも赤ん坊の気配が感じられない。

 部屋に戻ったときに初めて、いつの間にか泣き声がやんでいたことに彼は気づいた。「いつ泣きやんだ?」と歩さんに訊ねると、「和真くんが出ていってすぐ」と言う。

「ふうん……まあ、いっか。あんな調子でしょっちゅう泣かれると困るけどね」

 後になって、その悪い予感が的中していたことを知る……赤ん坊は四六時中、泣いたのだ。

 翌朝、歩さんは「夜中も泣き声がした」と言った。彼は熟睡していたのでわからなかったが、また大声で泣いていたという。

 彼女は少々ためらった後に、奇妙なことを言いだした。

「変なんだよね。深夜で辺りが静かだったから、耳を澄ましていたんだけど。どっちから泣き声がしているか、わかるかなと思って。そしたら右からも左からも天井からも、床下からも聞こえていたんだ……。それで怖くなっちゃって」

「この部屋の中で、姿が見えない赤ん坊が泣いていたって言うの?」

「ううん、ちょっと違うな……なんていうか、部屋の周り全部から声が聞こえてくる感じ」

 歩さんによれば、部屋を四角いキューブに例えるとして、キューブの外側全面で赤ん坊が泣いているかのように感じられたという。

「ねえ昨日、両隣に挨拶に行ったときって、泣き声してた? 外に出たら聞こえなくならなかった?」

 彼は質問に答えられなかった。ほんの昨日のことなのに、なぜか思い出せなかったのだ。

「ここには長居しない方がよさそうだ。社宅が空いたら、すぐ出よう」

 妙に胸騒ぎがした。それ以降も歩さんは、頻繁に赤ん坊の声を耳にした。たまに和真さんにも聞こえたが、圧倒的に歩さんが聞くことが多かった。

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