「子供ばんど」の衝撃――エレキ少年が念願のデビューをつかみ、米国に進出するまで

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ヤマハのコンテストでグランプリ獲得

 市内のライブハウス「のらろば」では、同じ埼玉県のバンド「アレレのレ」と一緒になることが多く、互いに「お前らには勝った」などと話していたこともあった――のちの「スターダスト☆レビュー」である。その後、東京・渋谷のライブハウス「屋根裏」に出演するなど実績を積んで認知度も上がり、1979年にヤマハのアマチュアバンドコンテスト「EastWest」に出場。見事、シニア部門グランプリを獲得した。

「コンテストで目に留まれば、デビューへの道が開けると思ったんですね。ただ一緒に出て優秀グループ賞に選ばれた『アナーキー』はレコード会社が決まってデビューしたんですが、子供ばんどはなかなか決まらなくて…」

 そんな頃、東京の「原宿クロコダイル」でのライブ出演時に、高級そうなカメラを持ち、「いいねえ」と言いながら写真を撮りまくっている人がいた。

「ロック好きのカメラマンかと思っていたら、宇崎竜童さんだったと後で分かったんです。リーゼントでもなかったから全然気付かなくて(苦笑)。宇崎さんから、デビューについて、会って話したいと連絡をもらいました」

 もともと松崎しげるのマネージャーを務め、プロダクション業務にも長けていた宇崎は「バンドは自分たちでコントロールできるように自分たちのオフィスを持ったほうがいい」とノウハウを伝授。音楽出版社が決まり、子供ばんどはキャニオン・レコードからアルバム「WE LOVE 子供ばんど」でデビューした。1980年10月のことである。

「当時はレコードを出すのがプロの証だと思っていましたから、プロとしてコンスタントにリリースするのを守るべきだと考えていました。なので、デビュー翌年には2枚のアルバムも出しました」

米国に進出の夢はかなったが……

 バンドとしては着実にステップアップし、ライブで全国を回った。そして1983年には「米国で勝負したい」との思いが抑えきれなくなっていた。

「大好きだったリック・デリンジャー(米ギタリスト)が来日した際、関係者が子供ばんどのライブに連れてきてくれたんです。しかもアンコールのときに、一緒に来たトム・ピーターソン(「チープ・トリック」のベーシスト)と一緒にステージに上がって、『ロックンロール・フーチー・クー』を演奏してくれたんです。僕らもその曲をカバーしてたんで、夢のような出来事でしたね」

 米国で勝負するため、デリンジャーにプロデュースを頼みたい旨を告げると、快諾。渡米した際にはニューヨークにあった自宅のプライベートスタジオに招かれた。キャニオン・レコードには米国の支所がなかったため、宇崎の伝手でエピックソニーに移籍し、デリンジャープロデュースのアルバム「HEART BREAK KIDS」(1983年)を発売。以後、数年間は日本と米国・カナダを往復しながらの活動が続いた。

ただ、国境を股に掛けた活動を続けているうち、家族との生活を重視せざるを得ないメンバーも出て、次第に足並みがそろわなくなった。それでも意地のようにライブ活動を続けていた。

 ちなみにこの頃、1984年デビューの吉川晃司の初期ツアーをギタリストとして支えたのもうじきだった。2025年8月の吉川の還暦ライブでは、アンコールでうじきが登場。息の合ったユニゾンギターを響かせ、会場を沸かせた。

「がっつり一緒にやったのは40年ぶりだったですかね。あいつのデビューツアーは47都道府県全部回ったんですよ。当時は超アイドルで、水の中に飛び込んだりもしてました。ここまでの道のりを見てきて、年は8つ下ですが、友達でいてくれて光栄ですよね」

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 小学生時からバンド一筋でやってきたうじき。第2回【役者、「カルトQ」でお茶の間へ “永久凍土解凍”でステージに立ち続ける「うじきつよし」の音楽への帰り道】では、バンドの活動休止やその直後から進んだ俳優や司会の道、さらに子供ばんど復活に至る思いなどを語っている。

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