「あの日を境に、竹下の空気が変わりました」 元総理夫人が振り返った「昭和天皇が倒れた日」秘話

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竹下総理は「元号は大丈夫か」と

 午前7時半。竹下首相が私邸を出発、皇居へ向かった。

「渋谷から高速に入って、裏手側の二の丸の方から皇居に入ったと思います。記帳の場に藤森長官が総理を待たれていて、ふたりで5~10分ほど言葉を交わしていました。総理は長官の言葉にうなずいていました」(前出・上野治男氏)

 竹下首相はその足で首相官邸に入った。官邸内には徹夜で情報収集に当たっていた内閣の要である石原信雄官房副長官(81)をはじめ、幹部たちが集まっていた。

「総理は、宮内庁長官から聞いた内容を私たちにお話しになりました。陛下は大量の吐血をされ、19日の段階ではご病状はどのような事態になるのか分からなかった。それだけ非常に緊迫した状況であることは間違いなかった」

 と語るのは、現在、地方自治研究機構会長を務める石原信雄氏である。

「一番の問題は元号でした。崩御となれば、すぐに決めなければなりません。元号の制定の責任は官邸にあります。学者先生にお願いして幾つかの原案はあったものの、最終的に元号の案として、政府が閣議決定すべき素案として、元号問題懇話会に提出するには、まだ絞り込まなければならない。その作業が必ずしも終わっていない途中の段階にありました。竹下総理はものすごく心配して、執務室に入るなり、“元号は大丈夫か”“間に合うのか”と言われ、的場氏から報告してもらったのを鮮明に覚えています」

6月から極秘に委員会を立ち上げていた

 的場氏とは、当時の的場順三内閣内政審議室長(74)のことである。

「私は元号の担当者で事務方でしたから、(陛下のご病状に関係なく)とにかく何があっても準備はしておりました」

 と、的場氏。

「竹下総理は元号を決められる上で責任を痛感されておりましたね。後で総理から直接聞いた話ですが、郷里の先輩・若槻礼次郎首相も昭和の年号を決められた。奇しくも島根出身の総理大臣が二代に亘って元号を決める事になったと、おっしゃっていました」

 一方、元号とは別の準備を密かに進めていたのは、内閣安全保障室長だった佐々淳行氏(77)である。

「6月から、陛下がいざという時のために極秘に委員会を立ち上げて準備を始めていました。いつ事態が起きても準備することこそ、危機管理の鉄則です。委員会の名前は『大喪の礼治安維持実行委員会』。1月7日の崩御の後、そのベールを脱ぎました」

「天皇倒れる」の報に揺れたあの日。昭和も遠くなりにけり、である。

 ***

「そのご様子を目の当たりにして、大きなショックを受けました」――昭和天皇最後の記者会見に出席した記者はこう語った。第1回【「さすが陛下だなあと思いました」 当時の医師団が明かしていた「昭和天皇」最後の日々 発表で“ガン”という言葉を使わなかった理由とは】では、1989年9月の大量吐血までに“Xデー”を予期させた前年の出来事が明かされている。

デイリー新潮編集部

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