「あの日を境に、竹下の空気が変わりました」 元総理夫人が振り返った「昭和天皇が倒れた日」秘話
第1回【「さすが陛下だなあと思いました」 当時の医師団が明かしていた「昭和天皇」最後の日々 発表で“ガン”という言葉を使わなかった理由とは】を読む
昭和天皇の容体が急変し、突然吐血されたのは、今から37年前の1988年9月19日のことだった。深夜に流れた「天皇倒れる」の報は瞬時に日本を揺るがし、国民にひとつの時代の終わりを予感させた。その110日後に昭和が終わり、今は平成も過ぎ令和、あるいは「昭和100年」である。
【写真】皇居の記帳所には長蛇の列…日本に緊張が走った37年前の9月
「天皇倒れる」の報が流れたあの時、皇居とその周囲では何が起こっていたのか。関係者の証言で激動の日をたどるドキュメント「昭和天皇が倒れた日」。第2回では、当時の宮内庁長官・藤森昭一氏、元総理大臣秘書官の上野治男氏、竹下元総理夫人・直子さん、元首席参事官の古川貞二郎氏らが証言する。
(全2回の第2回:以下、「週刊新潮」2008年9月25日号「1988年9月19日 ドキュメント『昭和天皇が倒れた日』」を再編集しました。文中の年齢、肩書等は掲載当時の2008年のものです)
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宮内庁長官の自宅に押し掛けた記者たち
1988年9月19日、午後11時40分。電話で異変を知った山本悟侍従長と北白川祥子女官長は車で相次いで皇居に入った。
午後11時59分。日赤血液輸送車がサイレンを鳴らして皇居内へ。
宮内庁のトップ藤森昭一長官(81)は記者から容体急変を聞いた。
「横浜の自宅に記者が大勢押しかけてきました。“陛下が吐血したらしい”と言うのです。急ぎ宮内庁に電話をしても、混乱しているようで通じない」
とは、藤森氏ご本人。
「自宅では全く情報は取れない。意を決して皇居に向かうことにしました。娘に運転を頼んで“急げ”と指示しました。東名川崎インターから東名、首都高で皇居に急いだ。相当なスピードでしたが、私が娘に“(スピードを出しても)かまわない”といいました」
横浜から皇居までわずか30分で到着した。
「乾門から入り、宮内庁庁舎には向かわず、外庭東門から直接、吹上御所に向かいました。物凄い数のマスコミ関係者が張っていて、テレビのライトやフラッシュ、それに“誰だ! 誰だ!”という記者の怒声を浴びました。強引に車をガンガン叩いて、誰が乗っているのかを確認しようとしてきました。吹上御所でまず高木(高=はしごだか)侍医長から状況報告を聞きました。容体は安定しているようなので、とりあえず安心しました」
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