全米を熱狂させた「ザ・グレート・カブキ」の毒霧…“東洋の神秘”が語っていたトレードマーク「毒霧」の正体とは
1980年代前半、小学校の水飲み場で、よく見られた光景があった。男子生徒が水を口に含んで、プーッと霧のように吐き出すのである。わけがわからない女子生徒もいただろうが、“プロレスごっこ”の一環であった。いわば、教室の後ろで繰り広げられる4の字固めの攻防と同じだ。彼らは、ザ・グレート・カブキの吐く「毒霧」を真似していたのである。カブキが引退したのは、1998年9月7日。今から27年前であるが、トレードマークとなった毒霧の正体を含め、ザ・グレート・カブキというプロレスラーの偉大さを振り返りたい。(文中敬称略)
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歌舞伎役者の写真を見て
ザ・グレート・カブキ。本名、米良明久は、1948年、宮崎県出身。64年に日本プロレスでデビューし、基本に忠実なテクニックを武器に、高千穂明久のリングネームで活躍した。しかし、日本プロレス崩壊後、一時は全日本プロレスに籍を置きながらも、結局は海外のマットを主戦場にする。
転機が訪れたのは1981年のことだった。テキサス州のダラスに入ると、マネージャーに言われた。
「こういうマスクマンになれないか?」
見ると日本の雑誌で、鮮やかな隈取りを施した歌舞伎役者の写真が載っていた。
「ノー。これはマスクじゃないよ。メイクだ」
マネージャーは、大層驚いた様子だったという。しかし、言った。
「じゃあ、そのメイクを出来ないか?」
絶対にウケると思った。最初はドーランで顔を塗ったが、すぐ剥げてしまうため、落ちにくい女性の口紅を使って彩色。さらに、入場時は般若の面をかぶり、パフォーマンスとしてヌンチャクを披露。歌舞伎の隈取りに能の面、琉球古武術の武器と、既にこの時点で統一感がないのだが、すべては“神秘性”を出すための計算だった。出身をシンガポールという設定にしたのもその一環である。このころは既に、日本製の電化製品や車がその評価を全米で高めていたため、“フロム ジャパン”では、怪しさに欠けたのである。こうしてペイント・レスラー、ザ・グレート・カブキが誕生。瞬く間に、全米で人気者になった。
そして、その謎めき度合に磨きをかける、プロレス界において発明と言っていい武器が開発されたのも、この顔への彩色がきっかけであった。そう、毒霧である。
ある試合後、シャワーを浴びると、落ちたメイクが口に流れ込み、思わず「プーッ!」と吐き出した。すると、奇麗な霧状に空気が光ったのである。(使える……!)毒霧が産声を上げた瞬間だった。
さっそく研究に入った。先ず、色は赤と緑が一番空間に映えると、それこそ色々な染料を水に溶かし、噴いた上で決定。角度も、リングの照明に向かって斜め45度に噴くと最も美しく映えるとわかった。
しかし、最大の問題が残っていた。“どうやって準備し、吐くか”である。
水をそのまま口に含んで試合は出来ない。さりとて、同色の粉を細かく切ったストローに詰めて噴こうとすれば、口の中の湿気で固まってしまっていた。
めげずに改良を重ね、いざ披露されれば、テレビを観た子供たちが大熱狂。「いったい成分はなんだろう?」「なぜ、試合途中で出せるのか?」などなど、その謎を追いかけるように、メロンソーダを口に含んで噴き出し、真似る事例が続出。親たちがテレビ局に抗議の電話を入れる騒ぎにまで発展した。
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