全米を熱狂させた「ザ・グレート・カブキ」の毒霧…“東洋の神秘”が語っていたトレードマーク「毒霧」の正体とは
アメリカでは悪役
髪を長くし、それが顔面にかかり、表情が見えぬ不気味な風采に、余りにも謎めいた毒霧攻撃。カブキの名は全米を席捲したが、その人気は、悪役としてのものだった。オハイオ州でのアンドレ・ザ・ジャイアントとの対決は、今でも伝説化している。ベビーフェイスのアンドレに悪逆の限りを尽くし、最後はフォールされる寸前に下からアンドレに毒霧を噴きつけ反則負け。ヒートした観客500人以上が会場外でカブキを待ち構える事態に。結局、カブキは会場の荷物運搬用エレベーターから脱出したが、その際、体育館の館長は、こう言い残したという。
「ここから出たのは、エルビス・プレスリーとユーだけだよ(笑)」
そして、評判は海を越え、1983年2月、遂にカブキとして日本に“凱旋”する。初戦となった2月11日の後楽園ホール大会には、48名ものカメラマンが取材を申請。同所でこの記録は未だに破られていない。専門誌だけでなく、一般誌への登場も頻発した。総合月刊誌『現代』(講談社)では巻頭のグラビアコーナー「現代の肖像」にて、役所広司らと肩を並べている(1984年3月号)。加えて週刊誌が、その最大のミステリーを追った。そう、「毒霧の正体は何か?」である。
「グリースの一種をリング登場前に口一杯にふくんでおくみたいだ」(『週刊ポスト』1983年3月4日号)というプロレス記者の談話が載れば、「粉末ゼリーの一種」と断定する雑誌も(『女性自身』1983年4月7日号)。
食い違う見解――それもそのはずだ。今では、「僕の使うグリーン・ミスト(毒霧)の成分は、ワサビ」(TAJIRI)というように、中身を明示するレスラーもいる。ところが、こと元祖であるカブキに関しては、この質問について完全にシャットアウトしていた。1986年、「毒霧の正体」についての直撃インタビューを受ければ、「プロとしての俺の売りだからね。正体はバラせない」。それでもしつこく食い下がる記者には、「引退する時にコソッと」といなし、「知らない方が夢があるってもんだ」と、もっともな発言をするのだった。
そして、日米でブームを起こしたインパクトとその人気は、カブキ自身の家庭にも影響を及ぼした。1989年、久々にロサンゼルスにある自宅に帰ると、まだ年端も行かぬ長女が悲しげに言った。
「パパ、他にも子供がいるんでしょう?」
「そんなわけないじゃないか」
「ウソよ。今、テレビに出てる」
ブラウン管の中では、ザ・グレート・ムタが戦っていた。
言うまでもなく、武藤敬司の別人格であるムタ。1989年から始まったアメリカでの売り出し方は、“カブキの息子”としてだった。立って良し(立ち技)、寝て良し(寝技)、飛んで良し(空中殺法)――のコンプリート・ファイターだが、何より「カブキの子どもである」という経歴が、全米人気に寄与したことは否定出来ない。「カブキの親族である」ことは、もはやステータスだったのだ。
もっとも、素顔は大らかなムタだけに、ペイントする際に書き付ける漢字も、鏡を見て、そのまま顔に書いていたという。つまり、出来上がりを見ると、漢字が逆さ文字になっているのである。しかし、ムタはこれを訂正しなかった。「アメリカ人には、どうせ漢字、わからないだろうって(笑)」(ムタの“代理人”武藤の弁)
2人の逸話の数々にはユーモアすら漂う。ところが、“親子対決”は凄絶を極めた。
1993年5月の初の一騎打ちは、稀に見る大流血戦に。割られたカブキの額から勢いよく血が飛び出す。流血ではなく、字体通りの出血。放射線を描くそれを掌で受け止め、ムタに塗りたくるカブキ。湧き上がる悲鳴。「あれも、アメリカで流血戦をやるうちに覚えた。力を入れると、簡単に血が飛び出るんだよ」と、カブキ自身は後日、冷静に振り返っていたが、壮絶な光景に、試合後、ムタの口から物言いがついた。
「見りゃあわかるだろ!? 何もかも時代遅れなんだよ! もうパパは隠居してくれと。これが息子からのメッセージだよ!」
意見はともかく、ムタがその出自を忘れ、日本語でまくしたてていた。このこと自体が、かなりの動揺を物語っていた。対してカブキのマイク・アピールは、「My son! I kill you son of a bitch!」と、凄みたっぷり。親子関係は維持しつつ、しっかり“母国語”であり、ヒール(悪役)としての真髄を見せつけた感があった。内容はともかく、役者ぶりでは完全にカブキが上回っていた。
[2/3ページ]

