全米を熱狂させた「ザ・グレート・カブキ」の毒霧…“東洋の神秘”が語っていたトレードマーク「毒霧」の正体とは
明かされた毒霧の正体
そんなプロ中のプロであるカブキから、遂にこの言葉が出る時が来た。
「毒霧の正体? 順を追って話そうか」。
この時、カブキは2ヶ月後に引退を控えていた。49歳になっていた。
自分の役割を悟ったことがあるという。1967年6月23日、香川での6人タッグマッチのことだった。自身初のメインエベント登場で、外国人勢vs馬場、猪木、自分だった。
「要するに俺は、“やられ役”なわけ。たとえキャリアを積んでも、2人には、体格でも、スター性でもかなうわけがない。そこで思ったんだ。とにかくお客を喜ばそうと。プロレス団体に、必要な選手になるんだと」
前述した、カブキの作り込みもそうだし、凱旋した全日本プロレスでは、コーチ役を担った。元横綱・輪島のプロレス転向の際も手ほどきしている。
「“基本からやる”と、横綱も覚悟してたしね」
流転の末、上がることになった新日本プロレスでも、空手家の域を脱してなかった斎藤彰俊を指導した。
「受け身とかね。若くて一生懸命だったから……」
全米ではメインエベントを任される伝説のヒール・レスラー。だが、日本に戻ると、周囲の援護射撃のような役割が目立った。冒頭では「1998年7月引退」と紹介したが、実はその後、引退試合を主催してくれたIWAジャパンが大試合を打つと、頼まれて限定復帰。新日本プロレスでも、日本プロレス時代からの仲間である星野勘太郎がプロモートする大会で、負傷者が出たため、緊急出場したこともある(2002年10月27日)。
2013年の九州北部豪雨災害チャリティーイベントではレフェリーを務め、17年には、佐賀の子どもチャリティープロレスでメインに登場。同年、過疎や高齢化に直面する地域を活気づけようと北海道各地で巡業を続けるプロレス団体「北都プロレス」の400回記念大会にも、それこそ現地まで渡航し、試合に出場した。「頑張っている人たちは、応援しなきゃね」との本人の発言がある。日米で人気を得たトップレスラーとしての偽らざる心遣いだろう。
さて、毒霧の正体である。
「心の準備はいいね?」
引退の2ヶ月前、訪れた記者にカブキは言った。
「俺は考えたんだ。毒霧を噴いた後、どうなるかを。子供たちが、その残骸に近づき、成分は何かを必ず確かめようとするだろうと。だから、嫌な匂いがした方がいい。それでこそ“東洋の神秘”が際立つってもんだ。つまり、口の中に入れることが出来て、異臭を放ち、目に噴きつけられると痛いもの……」
付記すれば、粉状にし、着色したそれを、カブキは男性用の避妊具に入れ、ゴムの先を縛り、タイツに隠し持ったという。そして、噴射する段にそれを口に投入し、噛み切り出したのだ。
「キミも料理したことがあるだろうから、わかるんじゃないか。強烈な匂いがして、まな板の上でみじん切りしているときでも、たまに目が痛くなるアレのことは(笑)」(『週刊プレイボーイ』1998年7月21日号)
記者の「ドラキュラも嫌がるアレが、“毒霧”の正体だったんですね」という言葉に、「まあね」と答えたカブキは、記者に、こんな言葉を投げかけた。
「あれから12年か。普通、12年前の約束なんて、忘れるもんだぞ(笑)」
記者は12年前も同じことをカブキに聞き、あしらわれた。だが、その時、前出のように、言われた。「引退する時に、コソッと(教えてあげる)」と。それを信じ、待ったのだ。12年後、再訪して来た記者の熱意に、カブキも気持ちで応えたのだった。
カブキは引退の前月、息子、ザ・グレート・ムタとタッグを結成。勝利し、インタビュールームでの離れ際、ムタは言った。
「My daddy!I love you!」
ムタの顔面には、赤地に黒字で『SON』(息子)、『Good-by Daddy』(さよなら パパ)とあった。
それは、逆さ文字ではなかった。
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