「公共の場に女性の裸像が置かれているのは日本だけ」 大学教授の“ウソ”を簡単に見破れる時代(古市憲寿)
現代社会のいいところはうそが一瞬でバレるようになったことだ。最近では亜細亜大学の高山陽子教授の主張がSNSで笑いものになっていた。発端は街の裸婦像を巡る読売新聞の記事。公共の場にはふさわしくないと撤去される事例が相次いでいるのだという。その際に専門家としてコメントを寄せていたのが高山教授。いわく「公共空間に女性の裸像がたくさん置かれているのは日本だけ。欧州やアジアでは美術館の敷地内や庭園に限られる」。
一般の人が海外旅行に行けず、ネット検索もできない時代だったら、大学教授のありがたい言葉として見過ごされていたのかもしれない。だが今や、この手のうそはすぐにファクトチェックされてしまう。
まず、ローマにもパリにもブリュッセルにも街の真ん中には裸婦像が置かれている。イタリアのトレヴィーゾという街には「Fontana delle Tette(おっぱい噴水)」という代物まである。街の中心部に設置された裸婦像で、胸からどばどば水が出ている。もともと16世紀にあった像を1989年に復元したものだという。古代ギリシャとルネサンス以降のヨーロッパにおいて、公共空間における裸婦像というのは何ら珍しいものではない。
確かに高山教授の言うように、庭園にも多く裸婦像が設置されている。だが国連などの定義では、公共空間とは誰もがアクセス可能な場所。ヨーロッパの庭園は自由に入れることが多いので、通常は公共空間と解される。さも「美術館の敷地内や庭園」を「公共空間」ではないかのようにコメントするのはずるい。
だが新聞は記者が取材を要約したもの。さすが学者が断言するからには根拠があるのだろうと、「公共空間における女性の彫像に関する一考察」という研究ノートを読んでみた。世界主要都市の裸婦像の数などが定量的に調査されているのだろうと思ったら、そんなことはなかった。全体的に恣意的な感想が中心。日本の裸婦像でさえ「正確な数を把握することは難しい」といって、任意の駅前で撮った写真を掲載してごまかす始末である。
この国では時折、文系不要論が盛り上がる。僕も文系の人間だから偉そうなことは言えないのだが、個人の思い込みを「研究」と言い張るような「学者」の存在は、文系不要論を加速させてしまうだろう。初めから偉そうに「研究」なんて主張せずに「私は街中に裸婦像が置かれることに耐えられないんです」と言ってくれたらいいのに。
ではAI時代の文系の学者は何をすべきか。一つの活路はAIの下働きである。地道に全世界の裸婦像をカウントすることもその一つ。「公共空間」の裸婦像はグーグルストリートビューとAIの画像認識を組み合わせれば、ある程度までは一覧を作れそうだが、庭園や美術館の作品はそうもいかないだろう。その一つ一つを地道に調査していくというのなら、まだ学者も多少の価値を認めてもらえるかもしれない。





