30年「世界遺産になれない」彦根城 本当はアピールすべき“絶対的な価値”とは

国内 社会

  • ブックマーク

軍事施設として築かれ政治拠点として拡充

 彦根城は2期にわたる工事で完成したが、それぞれの工事は意味が異なる。彦根山にはじめて城を築いたのは、徳川四天王のひとり井伊直政の嫡男の直継だが、普通の築城ではなかった。直継が幼少だったので、家老の木俣守勝が徳川家康の許可を得て、家康の支援のもと慶長8年(1603)から、各大名に土木工事を負担させる天下普請で築かれた。当時、大坂には豊臣秀頼が健在で、彦根城は大坂とのあいだに有事が発生した際の、前線基地と想定されていたのである。

 この第1期の工事は彦根山の山頂部が中心で、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶと、翌年からあらためて工事がはじまった。この第2期は、譜代大名の筆頭である井伊家の手による、井伊家の居城としての工事だった。山麓に表御殿が造営され、中堀沿いの石垣や門が元和8年(1622)ごろに完成した。

 城とは第一義的に、敵の攻撃や侵入を防ぐための軍事施設である。それが領地支配の拠点となり、政治や文化の中心地にもなっていった。彦根城は当初、まさに軍事的な目的のために、いわば国を挙げて築かれ、平和が確立したのちに、藩政の拠点として拡充された、という歴史がある。このように、成り立ちからして二重の意味を負っている城は、決して多くはない。

 一方、彦根城がアピールし続けている「大名統治システム」とは、以下のようなことを意味する。江戸時代の幕藩体制下では、将軍の下、各地に領主としての大名が居城を構え、そこに重臣たちを集住させて領土を統治し、平和を保っていた――。彦根城はそのシステムを説明できる遺産だ、というのだ。

 たしかに彦根城には、そのシステムが一定程度残っている。しかし、この「大名統治システム」自体は、幕藩体制下のどこの城にも当てはまり、なんら珍しいものではなかった。だから、この「システム」に言及すること自体はいいとして、そもそも、ほかの城にはなかった彦根城の独自の価値も、アピールしたほうがいいのではないだろうか。

 では、「独自の価値」はどこにあるか。それは案外、簡単に見つかる。

移築を活用して軍事的な目的に応えた

 彦根城は豊臣氏に備えて天下普請で築かれた内堀の内側、豊臣氏の滅亡後に整備された中堀の内側が、ともに堀も石垣もほぼ旧態をとどめ、それだけでも、日本の城郭としてはかなり貴重だといえる。また、彦根山中には国宝の天守を筆頭に、重要文化財の天秤櫓、太鼓門と続櫓、西の丸三重櫓などが現存する。中堀と内堀のあいだにも佐和口多門櫓や、日本の城郭では唯一の遺構である馬屋などが残る(ともに重要文化財)。

 これらの建造物の逸話としてユニークなのは、天守、天秤櫓、太鼓門と続櫓は、いずれも移築されているという点だ。天守は関ヶ原合戦後に廃城になった大津城から移築されたことが確実で、天秤櫓は長浜城の大手門を運んできた可能性が高い。太鼓門と続櫓はどこかわからないが、規模が大きな城門を移築して小さく組み直したことがわかっている。

 移築建造物が多いのは、大坂の豊臣氏に備える必要もあって、当初、築城が急がれたことの反映だと考えられる。日本の伝統工法による木造建築は、金物を使わず、木材同士を継手や仕口と呼ばれる凹凸で接合している。つまり、木を組み合わせているだけだから、簡単に解体し、他所に運んでふたたび組み立てることができる。

 むろん、ヨーロッパなどの石造建築はそんなことはできない。彦根城はシンボルである天守を筆頭に、日本でしかできない移築を活用して軍事的な目的に応え、しかも、それらが数多く残るという、世にもまれな事例なのである。

 ところが、そんな彦根城だけの特別な価値を強調せず、「大名統治システム」という、どこの城にも共通した特徴だけを強調している。だから、「単独の資産で大名統治システムを完全に表現できているか」、つまり、彦根城だけで「大名統治システム」を語れるわけではないだろう、と反論されてしまうのではないだろうか。

次ページ:彦根城独自の価値こそ強調すべき

前へ 1 2 3 次へ

[2/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。