朝ドラ「100%つぶれる」と一蹴された雑誌が5万人の読者を獲得 やなせたかしが「サンリオ」と作った雑誌が30年続いた理由
NHK朝の連続テレビ小説「あんぱん」で、「キティちゃん」で知られるサンリオと、アンパンマンの生みの親・やなせたかしの不思議なつながりが取り上げられた。ドラマでは、やなせたかしの初の詩集を出版して成功を収めたところまでが描かれたが、両者の関係は、実は詩集出版にとどまらなかった。
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その後サンリオは、やなせたかしが編集長を務める雑誌『詩とメルヘン』を発行。この雑誌は、アンパンマンと並ぶ、やなせたかしのライフワークとなっただけではなく、今や巨大企業となったサンリオ躍進の源流になったとも考えられるのである。柳瀬博一『アンパンマンと日本人』(新潮新書)から抜粋して紹介しよう。
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ライフワークとしての『詩とメルヘン』
サンリオで『詩とメルヘン』の編集長になったときも、やなせたかしは、雑誌の中身の方はライフワークと考え、いい意味でわがままを貫きましたが、ビジネスの面では多くを望みませんでした。
1973年4月に創刊した『詩とメルヘン』は、サンリオ初の雑誌です。当時、やなせたかしは、大好きだった抒情画とメルヘンを扱う雑誌を作ろうと思い立ちました。読者からの投稿を募ってページを作る投稿誌、オーディションマガジンです。
メルヘンも抒情画も、甘ったるいと見なされ、プロの漫画家や詩人、出版関係者や評論家からはバカにされていました。こどもだまし、少女趣味、という言葉がついてまわりました。1950年代から60年代は、自分の好きな表現が貶されて落ち込んだりしましたが、50歳を超えた70年代のやなせたかしはいい意味でひらきなおることができました。好きなことをやろう。抒情的な詩やメルヘンや絵をたっぷり載せた雑誌を作ろう。
ただし、『愛する歌』の時とは違って、今回は予算がほとんどない。販売の道筋も決まらず、売れるかどうかもわからない。でも、社長が出そう、と言ってくれた。じゃあ、あとはぼくがやりたいんだから、ぼくが責任を持とう。やなせたかしは、「詩とメルヘンの雑誌」を出すために「この本はぼくの道楽だから社に迷惑はかけられない。無償でやる」(『人生なんて夢だけど』フレーベル館 2005年)と啖呵を切りました。
結果、やなせたかしはほとんど一人で雑誌を作り上げました。やなせ個人のギャラは辻信太郎社長(当時)がご祝儀でくれた1万円だけ。制作費は120万円を辻社長が出してくれました。
「表紙の絵からイラスト、カット、投書の選、連載メルヘン、エッセー、コラム、漫画をぼくひとりで担当しています」(同)という究極の個人雑誌でした。
読者からの投稿欄をのぞくと、ほとんどやなせたかしが作ることになりました。出版の専門家に聞いたところ、「1年続けば大成功。まずは創刊号だけで終わりと見る。三号くらいでつぶれるのは百パーセント確実」(同)と断言されていました。定価300円の創刊号1973年4月号は初版1万5000部。最初は季刊誌です。
「売れるはずがないので絵本形式にして、活字をドカンと大きくしてザックリ組みました」(同)
けれども専門家の読みはいい意味で大外れでした。あっというまに売り切れ、5刷を重ね、5万人の読者を獲得したのです。季刊誌から月刊誌に昇格し2003年8月の休刊まで30年続く、長寿雑誌となりました。詩を「普通の人々」とつなぐ、詩の世界を変えた媒体。それが『詩とメルヘン』でした。
「経費節約のために、表紙デザイン・編集・カット・詩とイラストの選・ルポすべて自分でやったのでオーバーワークになり疲れた」
やなせたかしは『だれでも詩人になれる本』(かまくら春秋社 2009年)のあとがきでこう述懐しています。なぜ、そこまで心血を注ぐことができたのか。それは、抒情詩の世界が、メルヘンの世界が、やなせたかしにとってのライフワークだったからです。アンパンマンもまた、やなせたかしのメルヘンの世界から生まれたわけです。1970年代、やなせたかしが『詩とメルヘン』の編集に熱中している一方で、アンパンマンの人気に徐々に火がついていくのです。
『詩とメルヘン』は、ビジネス面はサンリオのもの、でも編集内容はやなせたかしの「ライフワーク」でした。時代とも市場とも関係ない。詩とメルヘンが好きだから、雑誌をつくった。やなせたかしはそう考えていたのです。
メルヘンの会社に変身したサンリオ
アンパンマンがあまりに巨大な存在になったが故に、しばしば見落とされがちですが、『詩とメルヘン』は、やなせたかしのもうひとつの“ワールド”です。
『詩とメルヘン』が発売されたあたりから、サンリオは一気に巨大企業に成長していきます。1974年には「ハローキティ」が開発され、75年にはキャラクターグッズの販売が始まり、「マイメロディ(マイメロ)」が登場、76年にはアメリカで早くもキャラクタービジネスに乗り出します。
70年代後半にはハローキティブームが訪れ、何度かの山や谷を越えながら、世界ブランドに成長しました。映画製作にも手を伸ばし、78年の『キタキツネ物語』が同年の邦画興行ランキングで7位を記録する大ヒットになります。
2024年はキティが生誕50周年を迎えました。サンリオの国内連結売上は1000億円、営業利益は270億円、時価総額は7000億円、海外130カ国でビジネスを展開し、アジア・北米市場では確固たる地位を築いています(「ハローキティ」50周年、『カワイイ』魅力の謎と進化をたどる」中山淳雄 nippon.com 2024 10.11)。
このサンリオの躍進の源流は、しかし『詩とメルヘン』にあったのではないか、とやなせたかしはいいます。
「『詩とメルヘン』が創刊されたことでサンリオ社にひとつの核ができて、優秀な人材が入社試験に応募してくるようになりました。大金を投じてつくった豪華なパンフよりも効果があったと確信しています」(『人生なんて夢だけど』)
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