手塚治虫だけじゃない「やなせたかし」に惚れた天才たち 女優にも“口説かれ”メロメロになった過去も

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

 NHKの連続テレビ小説『あんぱん』があいかわらず好調だ。上半期ドラマ視聴率でトップを獲得し、物語は早くも後半に突入。もやもや続きだった主人公(北村匠海)とヒロイン(今田美桜)の恋愛もようやく実り、いよいよ東京での漫画家人生がスタートした。

 アンパンマンの生みの親・やなせたかしをモデルとする主人公の周りには、これから手塚治虫(眞栄田郷敦)をはじめ戦後を象徴するクリエイターたちが次々と登場するという。

 やなせが手塚に依頼されてアニメ映画『千夜一夜物語』(1969年)のキャラクターデザインを担当した話はよく知られているが、無名時代のやなせを頼った天才は手塚にかぎらない。作家の永六輔(藤堂日向)、女優の宮城まり子(久保史緒里)、作曲家のいずみ・たく(大森元貴)らとの出会いと仕事ぶりを、柳瀬博一『アンパンマンと日本人』(新潮新書)から抜粋して紹介しよう。

 ***

売り込みもしないのに……

 やなせたかしは、無名時代からさまざまな分野の天才たちから声をかけられました。

 そして、歴史に残る仕事をいくつもやってきました。

「ぼくの場合、売りこみもしないのに突然やったこともない仕事を依頼されて面喰うことが多い」(『アンパンマンの遺書』岩波書店 1995年)

 そして、さまざまな天才に声をかけられ続けたことを自身が不思議がっています。

「永六輔からはじまって宮城まり子、羽仁進、みんな、なぜいきなりぼくを指名したのだろう? こればかりはいくら考えても解らない」(同)

 声をかけてきたのが一人や二人ならば、偶然かもしれません。でも、両手の指では足りないほどの数の“天才”たちが、やなせたかしに「初めての仕事」をオファーし続けたのです。仕事の種類も多種多様です。しかも、いずれの仕事も、やなせたかしは「素人」でした。やったことがない。にもかかわらず、「やなせさん、やってくれませんか?」と天才たちから声をかけられ、いきなり「プロの大舞台」に引きずり出されて、一級の作品をつくってしまう。

 とても常人技ではありません。なぜ、やなせたかしに声がかかったのか。なぜ、やなせたかしができたのか。天才に見つけられる秘密。素人なのにいきなりプロ以上の仕事ができる秘密。この秘密を解き明かしていきましょう。

自宅に押しかけた永六輔

 永六輔との出会いは、一本の取材仕事からでした。

 戦後、高知新聞で新聞の紙面作りや雑誌編集をしていたので、やなせたかしは、取材することもインタビューすることも記事を書くことも得意でした。

 ある雑誌で人気歌手の丹下キヨ子にインタビューしたときのことです。「最近、注目している人は?」という質問に「(最近の)若い人では永六輔がいいわね」という一言があり、そのまま記事にしました。

 すると1960年、永六輔が荒木町のやなせたかしの自宅に直接訪れてきたのです。なんと、件(くだん)のインタビュー記事を読んだだけで、です。もちろん、初対面でした。

 永はいきなり切り出しました。

「今度大阪のフェスティバルホールで、労音ミュージカル『見あげてごらん夜の星を』をやります。それでその舞台装置をやなせさんにお願いしたいんです」(同)

 ミュージカルの仕事も舞台装置の仕事も全くの未経験です。

「ぼくは舞台装置はやったことがないし」と弱音を吐くと、すかさず永が「大体の設定はぼくがやりますから」。

 言われるがままに大阪に向かったやなせたかしは、まず、舞台となるホールですでにできあがっている巨大装置の色塗りをしました。三越百貨店の宣伝部時代、巨大看板の絵を描いていたときの経験が役に立ちました。

 原作・作詞永六輔、演出北澤秀人、作曲いずみ・たくのこのミュージカルは大成功を収めました。主題歌は3年後、63 年に坂本九がカバーして第5回日本レコード大賞を受賞、数多くのミュージシャンがカバーする、戦後日本を代表する歌となりました。

 やなせの舞台美術も「童話的で美しい」と好評を得、次第に舞台の仕事も手がけるようになります。のちに映画の仕事やアンパンマンの舞台の仕事をするやなせたかしにとって、演出や台本、舞台美術を学ぶ格好のきっかけとなったのでした。

宮城まり子の舞台衣装

 女優の宮城まり子に「発見」してもらったのも、彼女へのインタビューがきっかけでした。『漫画読売』の仕事です。宮城まり子は、歌手としてもミュージカル俳優としてもスターでした。インタビュー後、突然、宮城から電話がかかってきました。

「やなせさん、お願いしたいことがあるんや」(同)

 自宅に迎えにやってきた高級車に乗り、宮城まり子の家に着くと、

「リサイタルやるんやけど、その構成をしてほしいねん」

「衣装もついでにデザインしてほしいわ」

 そんな仕事、もちろんやったことがない。けれども、小悪魔的な魅力の若きスター、宮城まり子にグイグイお願いされ、メロメロになった(当人談)やなせたかしは、「不思議の国のアリス」を下敷きに、ミュージカルの脚本を書き、映画雑誌に出ていたオードリー・ヘップバーンの写真を参考に、舞台衣装のデザインを起こしました。

 舞台は大成功しました。

 やなせたかしは、「ぼくには別に師匠はいない」と言いながらも、「ひとり選ぶとすれば、或いは宮城まり子かもしれない」と振り返ります。

「構成も、作詞も、演出も、ぼくは宮城さんに教えてもらった」(同)

いずみ・たくと「手のひらを太陽に」

 永六輔と宮城まり子との縁が、次なる“天才”との仕事に結実します。

「見上げてごらん夜の星を」の永六輔の見事な作詞家ぶりに驚嘆したやなせたかしは、永を真似て作詞を始めていました。そして書いたのが〈♪ぼくらは みんな 生きている〉で有名な「手のひらを太陽に」です。漫画家として芽が出ず、漫画家仲間たちからおいてけぼりをくらい、取り残されてしまったやるせなさでたまらなかった1961年、やなせたかしはNET(現・テレビ朝日)のニュースショーの構成をしながら、番組中の歌の歌詞を書いていました。

 徹夜仕事に従事する夜中の仕事場で、懐中電灯で手のひらをかざしたら「血の色がびっくりするほど紅くてきれいで見惚れてしまいました」。その瞬間、「手のひらを太陽にすかしてみれば」のフレーズが浮かんだのです(『やなせたかし メルヘンの魔術師  90 年の軌跡』河出書房新社 2009年)。この詩に曲をつけてくれたのが「見上げてごらん夜の星を」で一緒に仕事をして仲良くなっていたいずみ・たくでした。最初にニュースショーで歌ってくれたのは、やはり友人となっていた宮城まり子です。

 その後、「手のひらを太陽に」は、全国に羽ばたきます。1962年2月から3月にかけて、NHK「みんなのうた」で放送されるようになったのです。宮城まり子とビクター少年合唱隊の歌、やなせたかし制作のアニメーションをフィーチャーした「手のひらを太陽に」がお茶の間に届きました。さらに3年後の1965年、やなせたかしと親しかった早稲田大学出身のコーラスグループ「ボニージャックス」がカバーし、大ヒットします。この年のNHK紅白歌合戦でボニージャックスが歌ったことで「手のひらを太陽に」は誰もが知る永遠の名曲になりました。

 いずみ・たくとはその後、アンパンマンのミュージカルで曲をつけてもらったり、アンパンマンの劇中歌の作曲をしてもらったりと、いずみが亡くなるまで公私共に親しい間柄となりました。

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。