「6人を焼死」させても死刑回避 判決後には「うまくやった」と笑みを浮かべ…「新宿バス放火事件」 服役囚がその後に選んだ“最悪の結末”
丸山を憎む気持ちにはなれない
なお、これは全くの偶然だが、プロカメラマンをしていた杉原さんの兄が現場を通りかかり、バス炎上の瞬間をカメラに収めていた。兄は、急を聞いて病院に駆けつけるまで、まさか妹が事件に巻き込まれていたとは思いもしなかった。
読売新聞は、兄が撮影した写真とともに、奇しくも、この乗客の中に実の妹がいたその巡り合わせを大々的に報じた。
兄はその後、プロカメラマンの職を辞した。
杉原さんは後に、『生きてみたい、もう一度』(文藝春秋)と題した手記を出版し、反響を呼んだ。
言語に絶するつらい治療、10度の手術。2度の死線を彷徨い、ようやく命を取りとめた後もケロイドが全身に残り、もはや健康体には戻れないが、それでも丸山を憎む気持ちにはなれないこと。
さらに、11ヶ月を超える入院の後、不倫相手の男性といっしょになったが、後遺症による体調の悪化、男性が抱えていた借金の返済などさまざまな心労が重なり、自殺を決行しようとしたこと。しかしなんとか思い止まって、「それでもやはり生きたい」という心境に到達するまでの魂の遍歴が綴られている。
この手記を元にした同名の映画が、昭和60年、恩地日出夫監督、桃井かおり主演で公開された。
首吊り自殺
なお、無期懲役の刑に服していた丸山は、平成9年10月、千葉刑務所で首吊り自殺を遂げた。良心の呵責に耐えかねたのか、それとも、長期拘留に耐えられなかったからなのか、理由は定かではない。
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以上が事件と、その後の顛末である。
獄中での11年間、丸山はどのような生活を送っていたのか。自らも服役経験のある作家の故・見沢知廉氏は千葉刑務所在監時代、丸山と生活を共にしたことがあり、著書『囚人狂時代』の中でこう記している。
〈丸山は皆から可愛がられていた。無口なのでホラも吹かないし、人の悪口も言わない。(中略)その丸山が、時々あらん限りの声で叫ぶことがあった。皆が寝静まった深夜、突然、悲鳴をあげて布団の上に立ち上がるのだ。どんな夢に怯えていたのか。それを丸山が言葉にしたことは一度もない〉
丸山が死亡したことが公表されたのは、自殺の半年以上も後のことだった。報道によれば、その日、丸山は昼食後、「メガネを忘れた」と言って、食堂から作業場に向かい、5分経っても戻らなかった。職員が探しにいったところ、作業場の空気配管にビニールひもをかけ、首を吊っていたという。遺書はなかった。
これを受けて、前述の杉原さんは「FOCUS」(1998年7月22日号)の取材にこう答えている。
〈生きて償う義務があったのに。強い憤りを覚えました〉
身勝手極まりない理由で6人を焼死させ、自らの命すらもあっさりと絶つ。丸山にとって果たして「命」とは何だったのか。死刑から無期懲役刑への減軽に、一体、どんな意味があったのか。事件から45年経った今でも、その問いは残されたままだ。
【前編】では、事件の凄惨な被害、そして丸山の生い立ちから犯行に至るまでを詳述している。
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