「馬鹿野郎!俺をなめやがって」…“世間への復讐”のためにバスに放火、6人を焼き殺した「38歳ホームレス」は、なぜ死刑を免れたのか 「新宿バス放火事件」から45年

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世間に仕返しが

 退院後の丸山は、土木作業員をしながら各地を転々とし息子に送金を続けるが、元妻や長男の面倒を見られず、入院費用や養育費も満足に仕送りできない自分に、自責感と不甲斐なさを覚えるようになった。

 同時に、世間に対してねたみや恨みの気持ちを抱くようになっていった。

 昭和55年3月頃から、新宿駅西口広場の植え込みでごろ寝をするようになった。「ここなら泊まる金もいらないし、だれにも文句を言われないと思った」と言うが、「酒を飲むと、他人が自分を変な目で見ているような感じがいっそう強くなり、頭にきて、だれかれとなく人通りの中でどなりちらした」と供述している。

 8月15日夜、京王百貨店前のバス停付近で酒に酔ってわめいていたところを通行人に注意された。その通行人が停車中のバスに乗り込むのを見て、乗客のいるバス内にガソリンを撒いて放火すれば、世間に仕返しができると考えるようになった。

 そこで、ガソリンを10リットル買い、ねぐらの植え込みの中にガソリンの入ったポリ容器を隠して、犯行の機会を窺っていた。

死んでもかまわない

 そして犯行当日。午後8時頃、丸山は植え込みに戻りコップ酒をあおっていたが、飲むほどに酔うほどに、自分が世間から爪弾きにされていると感じた。そして、通行人が次々にバスに乗り込んでいくのを見て、「うちに帰れば幸せなんだろう。だがおれはここに寝る身だ」とねたみと憎悪を募らせ、犯行を決意した。

「ガソリンに火をつけてバスに放火すれば乗客はヤケドする。が、死んでもかまわないと思った」と自供している。

 丸山は、残りの酒を一気に飲み干すと、その辺に散らばっていた新聞紙を拾い集め、ポリ容器のガソリンを、盗んだバケツに移し、午後9時頃、乗降車口の全てを開放したバスに近づき犯行に及んだ。

 逮捕後の丸山は、髪の毛が焦げていることを問いつめられても、「焚火をして、その火で焦げた」と嘘をつき、多くの目撃者が現れて言い逃れができなくなると、「乗客がいるとは思いもしなかった」とぬけぬけと言った。

 ***

 その後、丸山は殺人罪などで起訴された。死者6名という結果の重大性から鑑みて、死刑判決を求める世論が高まった。しかし、4年後に出た一審判決で、丸山には無期懲役の判決が下され、その2年後に高裁で同判決は確定した。丸山が死刑を回避できた理由は何か。死刑回避を知った丸山が弁護士に見せた表情とは。そして、その後の丸山の人生の、驚くべき結末とは。【後編】で詳述する。

福田ますみ(ふくだ・ますみ)
1956(昭和31)年横浜市生まれ。立教大学社会学部卒。専門誌、編集プロダクション勤務を経て、フリーに。犯罪、ロシアなどをテーマに取材、執筆活動を行っている。『でっちあげ』で第六回新潮ドキュメント賞を受賞。他の著書に『スターリン 家族の肖像』『暗殺国家ロシア』『モンスターマザー』などがある。

デイリー新潮編集部

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