ソ連に11年間抑留され「謎の死」を遂げた近衞文麿の「長男」 なぜ近衞家の次期当主は二等兵として前線部隊に送られたのか

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 80年前の12月16日未明、GHQ(連合国軍総司令部)から戦犯指名を受け、自邸にて自殺を遂げた近衞文麿。日中戦争勃発から太平洋戦争直前まで、3度にわたり首相を経験した文麿のことを、結果的に日米開戦を回避できず多大な犠牲を生んだ戦争指導者として記憶する人は多い。実は、その文麿の長男である文隆は、陸軍の二等兵として旧満州のソ連国境付近に出征し、戦後はソ連で11年にわたる抑留生活を送っていた。その「数奇な人生」について語るのは、近衞家の次期当主で、近衞文麿の曾孫にあたる近衞忠大(ただひろ)氏(55)である――。

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※本稿は「週刊新潮」2025年8月28日号掲載【戦後80年 陸軍に差し出された近衞文麿「長男」の数奇な人生】の一部を抜粋/編集したものです。

曾祖父・文麿の自決から11年後に「謎の死」を遂げた祖父・文隆

〈あの戦争の時代、多くの人々が肉親を亡くす悲劇に見舞われました。近衞家でも文麿が54歳、長男・文隆も41歳という若さで亡くなり、短期間で2代の当主を続けて失います。それが遺族にとっては、埋めがたい喪失感となっていました。

 私の曾祖父・文麿は、GHQから戦犯指名を受け、出頭を命じられた最終期限日の未明に、自ら命を絶ちます。さらに私の祖父にあたる文隆も、戦後一度も祖国の土を踏まずロシアの地で果てました。

 祖父の生涯は、浅利慶太氏による劇団四季のミュージカル『異国の丘』のモデルとなり、国内外で出版された書籍の題材にもなりました。文隆の身に何が起こったのか。私は子供の頃から、両親や親族が多くを語りたがらない空気を感じていましたが、祖父は気になる存在でした。〉

 こう話すのは、クリエイティブ・ディレクターの近衞忠大氏だ。

 関白道長などで知られる藤原氏を源流に持つ五摂家筆頭の近衞家。その次期当主である忠大氏は近衞文麿の曾孫にあたる。

 文麿は、日中戦争勃発から太平洋戦争直前まで、3度も首相を経験した。結果的に日米開戦を回避できず多大な犠牲を生んだ戦争指導者として、記憶する人も多かろう。

 前回の記事で忠大氏は、戦後80年の間に近衞家が背負ってきた十字架と、一族に伝わる曾祖父の自決前夜までの出来事を仔細に語った。

 今回の記事では、忠大氏が曾祖父の自決から11年後に謎の死を遂げた祖父・文隆の半生を振り返り、改めて先の大戦における当事者遺族としての思いを明かす。

近衞公爵家の跡取りが、なぜ前線部隊の二等兵に?

〈1945(昭和20)年8月9日未明、「日ソ中立条約」を反故にしたソ連軍の対日参戦で、旧満州にいた関東軍の多くの将兵は、捕虜となってしまいました。約60万人もの人々がソ連に送られ、強制労働に従事させられて多くの悲劇を生んだ「シベリア抑留」の始まりですが、私の祖父もその中の一人だったのです。

 その5年前の2月、陸軍から召集令状を受け取った文隆は、翌月に旧満州のソ連国境に近い阿城に駐屯する関東軍阿城重砲兵連隊第三中隊に入隊します。階級は二等兵でした。

 文隆が前線部隊の二等兵だったと話すと、怪訝な顔をする方もいます。当時、文隆は華族の中でも最上位だった近衞公爵家の跡取りで、元首相の長男です。戦時下で、華族や政治家の子弟らは軍部に掛け合い召集を見逃してもらったり、入隊しても国内に配属されるよう便宜を図ってもらうこともあったと聞けば、なおさらでしょう。

 これまで最も多く耳にしてきたのは、陸軍による“懲罰説”です。文隆の妹・昭子も、そう考えていたと話していました。〉

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