ソ連に11年間抑留され「謎の死」を遂げた近衞文麿の「長男」 なぜ近衞家の次期当主は二等兵として前線部隊に送られたのか

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東条英機に、息子を陸軍に取ってくれるよう頼み込んだ

 文麿の意向で、文隆は米・プリンストン大学に留学中、突如として帰国させられます。学生時代はゴルフの腕前がプロ並みで、全米大学対抗選手権では主将としてクラブを優勝に導きます。日中戦争で対日世論が悪化の一途をたどっても、学生たちから慕われて米国社会に溶け込んでいました。

 そんな文隆が、近衞家の長男としての経験を積むため、第1次近衞政権で首相秘書官を命じられます。軍部との関係に苦慮する文麿としても、心許せる存在が必要だったようです。

 文隆は軍部が強行する日中戦争を収束すべく、極秘裏に中国へ渡り国民党の蒋介石と和平交渉しようと画策。憲兵の監視下で、中国側の女性スパイと親交を持った疑いをかけられて、強制帰国させられています。

 片や第1次政権から退いた文麿は、軍部や右翼から親米派だとか、日本古来の家柄なのに息子を米国留学させたなどと非難されました。だからというわけか。文隆の弟・通隆は、人づてに聞いたと断った上で驚くべき話を教えてくれました。

 首相を辞した文麿は、陸軍大将の東条英機に、息子を陸軍に取ってくれるよう頼み込んだというのです。

 自分への批判の矛先をかわすために、あえて息子を差し出す――。にわかには信じがたい話ですが、これに近い話が『近衞文隆追悼集』でも語られています。

 文隆と同じ部隊で同期の南部知一氏が、「内地のもっと楽な部隊に入れてもらえばよかったじゃないか」と尋ねたことがあったそうです。その際、文隆は「右翼の某氏が父に進言して、特に満州の僻地に入隊させたのだ。しかし良い人生勉強をしているよ」と答えたというのです。〉

終戦直後、国境付近でソ連軍に拘束される

〈初年兵の文隆は、先輩たちの衣類の洗濯から兵舎の便所掃除まで雑用もこなします。軍規を守り厳しい訓練に不平を言わず、消灯まで勉強を欠かしません。唯一の楽しみは、たまに許されて酒場に行くことくらい。ある時、深酒をして点呼に遅れた際は、懲罰で雨の中、貧血となり倒れるまで突っ立っていたそうです。

 長男が出征後、父・文麿は第2次、第3次近衞内閣を組織。再びの退陣後、東条内閣が樹立して日米開戦を迎えます。その間、文隆は徴兵期間が終わっても、予備役編入となり旧満州で従軍を続けていました。

 中尉に昇格していた文隆は、終戦直後に旧満州とソ連、朝鮮の国境に近い下城子でソ連軍に拘束されます。それから消息不明となり約2カ月が経った10月、彼は豆満江の中州にある間島収容所で「無事に過ごしている」。そうソ連軍将校から聞いたと話してくれたのは、文隆の妻・正子でした。

 以降、文隆は筆舌に尽くしがたい抑留生活を送ることになりました。初めこそ彼は「プリンス」と呼ばれて、将官並みの扱いを受けていたそうです。それでも、シベリアのウォロシーロフ(現ウスリースク)という町に近い将官クラスの収容所では、3畳ほどの監房に9人も入れられていたというから、住環境は推して知るべし。ソ連軍は文隆が近衞政権で「首相秘書官」だったことを過大視して、極東政策で重要な役割を果たしていたのではと、厳しい取り調べを続けます。

 同じ収容所にいた方の手記には、共産党組織では「秘書」が影の実力者だったことから、実態は文麿の“カバン持ち”にすぎなかった文隆の役回りを、理解できなかったのではと書かれています。〉

〈【「また新婚気分を味わおう」――それが最後の手紙だった 11年に及ぶソ連での抑留中に謎の死を遂げた近衞文麿の長男 その“壮絶” 人生を「近衛家」末裔が独白】では、近衞文隆の長期にわたる過酷な抑留生活や、取調官から解放を条件に持ち掛けられた“スパイ”の誘いについて。そして、抑留者の帰国が始まる2カ月前に「謎の死」を遂げた文隆の「終焉の地」を訪れた際、忠大氏が見聞きしたことなど、同氏の貴重な証言を6000字余りにわたり詳報している〉

デイリー新潮編集部

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