「決死隊の先頭で壮烈な戦死を遂げた」と美談かのように報道 戦争に奪われた“幻のスプリンター”の無念(小林信也)
颯爽と大陸の第一線に
ベルリン大会に続く40年のオリンピックは、東京での開催が決まっていた。史上初めてアジアで開かれる東京五輪の男子100メートルでメダル獲得を目指す期待の星が鈴木だった。
しかし、日中戦争が長期化し、競技施設建設資材も逼迫(ひっぱく)する中、ついに日本政府は五輪返上を閣議決定した。鈴木が夢に見た“東京五輪でのメダル獲得”は幻となった。
慶應大学を卒業後、日立製作所に入社した鈴木は37年12月、会社を辞めて大日本帝国陸軍に志願し入隊。それ以後は、鈴木の近況を報じる新聞記事が、それまでのスポーツ報道とは一変する。世界大戦に向かう日本の世相が色濃く感じられる。そして、スポーツ選手が、戦争への意識高揚に活用された空しい現実がそこに見える。
39年4月28日の朝日新聞は、《部隊の誇り“快速”戦線の鈴木聞多選手》の見出しをつけて、次の特派員報告を載せている。
〈部隊の至宝でこればかりは北、中、南支の各部隊のどれでも一寸真似が出来まいと兵隊から自慢されてゐる快速見習士官がゐるがこれは誰あらう我が陸上界の名スプリンターとしてベルリン・オリンピツク大会や国際学生大会で華華しい活躍した慶大OBの鈴木聞多選手であつた
鈴木君も今は時局の脚光を浴びて帝国の立派な干城となつて颯爽(さっそう)と大陸の第一線に進撃して居る〉
そして、本人のコメントが続く。
「スポーツで鍛へた身体が物を云つて苦しいと思つた事はなく全く有難いですオリンピツクや国際競技会において頑張つた調子で戦線でも大いにやります」
時代を考えれば、当然の記事なのだろうが、なんと恐ろしい、なんと勝手にスポーツと戦争を結び付けた発信だろうか。鈴木自身、このような発言をし、こう考えざるを得ない社会的抑圧があったとすれば、戦争がいかに卑劣で、いかに一人ひとりの幸福な人生を破壊するものかを改めて痛感させられる。
折れた刀を杖に
戦争のむごさ、痛ましさは、それから3カ月もたたない7月16日の報道でさらに動かせない現実となる。
《陸上の鈴木選手 河南省で壮烈な戦死》
さらに5日後、21日の続報では、
《決死隊の先頭 身に散弾・折れた軍刀杖(つえ)に突撃 鈴木聞多選手の最期》
まるで美談か武勇伝のような調子で記事は続く。
〈この戦闘に於て(中略)鈴木聞多見習士官は(中略)決死突撃隊の先頭に立ち奮戦刀が折れるまで激闘し全身数ケ所に重傷を負ひ折れた刀を杖に遂に壮烈な戦死を遂げたものである〉
スポーツには戦意高揚に利用された歴史がある。終戦80年の夏、スポーツはどうすれば世界平和の礎になり得るか、議論し共有してほしいと熱望する。だが、スポーツ界の指導者たちから、平和への熱い使命感を聞く経験はあまりない。
時局が変わればまたスポーツは政局に利用される危険をはらんでいる。鈴木聞多の無念を繰り返すような未来は絶対に避けなければならない。
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